文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 ガンダーラから日本へ /三井記念美術館
中華料理を出すファミレスの名として、日本ではもっぱらおなじみのバーミヤン……と書き出そうとして、もしやと思い店舗検索を試みたところ、首都圏であれだけ見かけたバーミヤンが、関西圏にはかなり少ないと判明。大阪府が最多7店舗、奈良県にはわずか2店舗。ショックである。自分で手巻きする北京ダックと、ドリンクバーの白桃のジュースが好きです……
筆者の食の嗜好についてはともかく、すかいらーくが展開するファミレス・バーミヤンの店名は、以下のような理念に基づいているらしい。
ここで述べられているように、バーミヤンの地は、ユーラシア大陸の東西を結ぶシルクロードの要地であった。本展においては「文明の十字路」と言い表され、長い名称の頭にも冠されている。つまり、ファミレスのバーミヤンと本展のコンセプトは、相通じるのだ……
ファミレスの話はほどほどにして。
アフガニスタンの首都カブールから230キロ離れたところに、古代の仏教都市・バーミヤンはある。
5〜6世紀頃にかけて築かれた高さ55メートルの西大仏、38メートルの東大仏がそのシンボルであったものの、2001年3月、イスラム原理主義勢力・タリバンによって爆破され、永遠に失われた。
大仏とともに、その周囲の壁や天井に施されていた壁画も吹き飛ばされてしまったが、1960〜70年代にかけて名古屋大学や京都大学が調査、写真やスケッチなどの記録を残しており、それらをもとに壁画のモチーフを復原的に描き起こした10分の1サイズの線画が近年完成。
その図を公開するとともに、関連する文化財を日本国内から集め、シルクロードの東側をひとつなぎにしてみせようというのが本展である。
バーミヤンにあった東西の両大仏をもとに、ふたつの視点が設けられる。展覧会名にもある「太陽神」と「弥勒信仰」だ。
東大仏の天井には、4頭立ての馬車に乗る太陽神ミスラの姿が描かれていた(下図)。
このような太陽神の描写は、釈迦が出奔する「出城」の図像に影響を与えたようだ。太陽神や釈迦が馬車に乗るさまを表したガンダーラ彫刻などの作例を展示。
西大仏の壁画には、弥勒菩薩の浄土である兜率天(とそつてん)のありさまが描かれていた。本展の大半を占めていたのは、じつは、こちらの壁画を起点とした「弥勒信仰」のほうである。
最初の突き当たり、独立ケース1つのみの小部屋には、大阪・野中寺の小金銅仏《弥勒菩薩半跏像》(白鳳時代・天智5年〈666年〉 重文)を展示。「弥勒信仰」編の幕開けを告げた。
図録やホームページ上の構成では最終章「日本の弥勒信仰」に含められている作品で、巡回元の京都・龍谷ミュージアムではそのとおりの展示順だったと思われるけれど、東京会場の三井記念美術館では序盤での登場となった。
「弥勒菩薩」といえば、このお像のような半跏思惟、すなわち右足を曲げて左膝に乗せ、右手を口もとに寄せて物思う姿が、即座に連想される。
しかし、源流をたどると、そのようなイメージとはいささか違った様相がみられる。バーミヤンの壁画にあるように、両足を垂らして足首をクロスさせる「交脚」(下図)、さらに手には水瓶を執るといった姿で、弥勒菩薩は表されていた。
野中寺のお像が先に登場することで、日本人が見馴れた弥勒菩薩の姿を確認し、その直後に続く当初の姿とのギャップを際立たせることに成功していたのであった。
弥勒信仰を東アジアにもたらしたのは、三蔵法師こと玄奘。彼が訪れた当時、バーミヤンの大仏は金色に輝いていたという。
中国・朝鮮における弥勒信仰の広がりに関しても、点数こそ多くないものの、石仏や小金銅仏を引き合いに出して紹介。
日本の弥勒信仰をさかのぼれば、やはり玄奘に行き着くが、意外なほど直接的な道をたどる。遣唐使に加わった僧・道昭が玄奘に師事、帰国時にもたらした大量の仏典のなかに、弥勒の教えがあったのだ。
そこから、日本の弥勒信仰は多様に発展していく。本展の展示作品も多様となるいっぽう、末法思想・経塚埋納など、章解説で言及されるのみで展示作品のないトピックもいくつかあった。それほど多様で、カバーしきるのがむずかしいのだろう。
イチオシは《弥勒菩薩立像》(鎌倉時代・13世紀 個人蔵)。「美仏」と呼ぶにふさわしい、きわめて秀麗な作。いつ観ても、ため息が出る美しさである。
個人蔵ながら、割と頻繁に各地の展示にお出ましになる。今回も、テーマ的に出ているだろうなと思っていた。興福寺伝来、『拈華微笑』所載。
——「太陽神」そして「弥勒信仰」という2つのテーマをとおして、みほとけの造形がたどってきた遥かな時間や距離に想いを馳せる、気宇壮大な展覧会であった。
11月12日まで。