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大和西大寺の西大寺 奈良
奈良といえば東大寺だが、西大寺もある
……などとは、たいへん失礼な物言いといわざるをえないけれど、世間の印象としては、そんなところかもしれない。
少なくとも、大和西大寺という近鉄線の駅名のほうが、由来になったお寺よりも認知度は高いだろう。
「大茶盛式」でご存じの方も多いか。顔が隠れるほど大きなお茶碗で抹茶を喫するあの行事は、西大寺でおこなわれている。
東大寺ほどではないとはいえ、西大寺はいまだなお「大きなお寺」と呼べる規模であるし、国宝・重文も多数所蔵されている。それらは、西大寺の隆盛と、その後の苦難の連続を物語る証言者といえよう。
そのうちのひとつ・秘仏《愛染明王坐像》(鎌倉時代 重文)は、秋と新春の年に2回、期間を限って公開されている。
西大寺にはこれまで何度か来ているけれど、愛染さんの御開帳には合わせられなかった。同時期に聚宝館(しゅうほうかん)がオープンしていることもあり、「西大寺へ来るならばこの時期」とおすすめする意味も込めて、探訪記を綴るとしたい。
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四王堂で共通拝観券を購入。券の四隅のうち3か所にキリトリ線がついており、3つのお堂それぞれで、もぎってもらう方式だ。
天平宝字8年(764)、孝謙上皇が内乱鎮圧のため四天王像の造立を発願したことが、西大寺の創建由来となっている。
その四天王像を祀る四王堂は、駅側の門を入ってすぐ右手。最初に拝観する場所としてはまことにふさわしい「西大寺はじまりのお堂」である。
現在の四王堂は延宝2年(1674)建立。西大寺の「苦難の連続」ぶりは、再建されたこのお堂の内部にもよく表れている。
まず目に入ってくるのは高さ6メートルの《十一面観音立像》(平安時代 重文)。京都・白河に営まれた幻の大寺・法勝寺にあったお像で、鎌倉時代、亀山上皇より西大寺の叡尊に託され、平安期の頭部に合わせて全容が整えられた。「頭だけ古い」というのは、近隣の秋篠寺の諸像とも共通する造作で興味深い。
その周囲を取り囲むのが、西大寺の創建にかかわる《四天王立像》(重文)。足もとの銅造の邪鬼だけが当時の作、上の四天王は中世の作で、うち1体は銅造ではなく木造での補作となっている。顔だけの十一面観音とは逆に、四天王は足もとのみが残存したのである。銅は焼けただれ、ぐにゃっと変形しており、炎の激しさを物語っていた。
※画像は西大寺公式サイトを参照。
※四天王の残欠は、奈良国立博物館のなら仏像館で観ることができる。
これらのお像の裏手には《行基菩薩像》(江戸時代 重文)。こちらも近隣の菅原寺、現在の喜光寺からやってきた客仏。「どこそこから移された」という種の逸話が、西大寺をめぐってはとりわけ多く聞かれる。
奈良時代の行基と同じく、民衆への布教や慈善事業に身を投じたのが、先ほど名前の出た鎌倉時代の高僧・叡尊である。叡尊は荒れ果てた西大寺を、戒律という原点に立ち戻らせることで復興した。
西大寺の主要な文化財には、創建期の天平や火災の相次いだ平安期のものは少なく、叡尊ゆかりのものが目立つ。
《愛染明王坐像》は叡尊の念持仏と伝わり、叡尊が住した房の位置に建つ「愛染堂」の本尊となっている。
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わたしはこれまで、江戸期制作の御前立しか拝見できていなかったが、この日は御前立が左側によけられ、厨子の扉が開け放たれていた。写真から受けるイメージに引っ張られていたようで、実物はずいぶん小さいなと思った。それだけに、精緻さや技巧が際立って見えたともいえよう。
左右の愛染さんを見比べると、御前立からは、原品をかなり正確に模そうとする意識が感じられた。高度な写しといえるけれど、鎌倉の原品のほうがより静かな怒りをたたえていたのも確か。顔の表現というのは、一筋縄ではいかぬものである。
愛染さんの左側には、叡尊の像《興正菩薩坐像》(弘安3年〈1280〉 国宝)が。叡尊80歳のときの寿像——すなわち、生前に制作された肖像彫刻である。本作は彫像というより、もはや「人そのもの」といった佇まいで、じっとこちらを見据えていたのだった。
続いて3つめのお堂、本堂へ。
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天井が高く、たいへん広々とした板の間の堂内には、清涼寺式の《釈迦如来像》(鎌倉時代 重文)、《文殊菩薩騎獅像および眷属像》(鎌倉時代 重文)、丈六の《弥勒菩薩坐像》(鎌倉時代 奈良県指定文化財)などが並ぶ(写真はこちらから)。いずれもすばらしい作行きの、叡尊所縁の像である。
如来、菩薩、天部に明王、高僧の像……こうしてみると、西大寺で拝観できる仏像はバリエーション豊かで、仏教美術史の授業には、まさにもってこいのお寺だろうと思われた。
共通券とは別に入館料を納めて、聚宝館へ。古めかしいつくりの宝物館で、奈良の古刹のなかでも早い、昭和36年の開設という。
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いまはなき五重塔に安置されていた鎌倉金工の品格高い精作《金銅宝塔》(鎌倉時代・文永7年 国宝)、同じく五重塔の内部で四方を守っていた塔本四仏のうちの2体《阿弥陀如来坐像》《宝生如来坐像》(平安時代 重文)などを拝見(写真はこちらから)。
館内にいくつも並んでいた近世制作の愛染さんからは、西大寺の愛染さんがいかに厚い信仰を集めたかが偲ばれた。江戸に出開帳したこともあったのだとか。
※塔本四仏の残り2体は東博と奈良博にあり、後者はなら仏像館で拝観可能。
奥の院。西大寺の伽藍から徒歩で10分ほど離れた住宅街のなかにあり、叡尊の墓が立っている。こちらにも、足を延ばした。
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奥の院のすぐ南には、西大寺の鎮守社・八幡神社がある。
最初に触れた「大茶盛式」は、叡尊が八幡神に献茶をし、その余りを皆に振る舞ったことに由来する。つまり、大茶盛式もまた叡尊ゆかりの行事であり、八幡社は発祥にかかわった地ということになる。これはぜひ、押さえておきたい。
しかし、わたしはこのとき、こともあろうに八幡社に行きそびれてしまった……詰めが甘くて、悔しい。
ま、自転車で行ける距離なので、また行けばいいさ。いつかは大茶盛式にも参加してみたいし、大和文華館へ向かう途中でもある。気長に、気楽に……
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