藤牧義夫と館林:12 白描絵巻の来歴① /館林市立第一資料館
(承前)
藤牧義夫による白描の絵巻は、計4巻分が現存している。
以上の作品名称は今回の図録にもとづいているが、いずれも所蔵館での管理名称をベースとして、具体名をカッコで補ったもの。義夫自身による作品名とは、かならずしも一致しない。10年前の回顧展では、この点を踏まえた作品名が採用されていた。
※「=」に続くものが、義夫自身が書き記した名称
Aは、義夫が属した日蓮宗系の宗教団体「国柱会」本部の庭園「申孝園」を描いたものと判明している。所在地は現在の江戸川区一之江で、荒川と江戸川(新中川)に挟まれた、隅田川からはいささか離れた位置関係にある。
ネーミングの齟齬は、東京都美術館が本作を収蔵した当時はまだ、どこを描いたものか不明であったことによる。一緒に伝来した同じ体裁の白描絵巻B、Cが隅田川を描いたものであること、制作年代もそれらとごく近接しており連続性がありそうなことから、本来一具と考えるのは自然だったろう。
しかし、よくみればAは跋文に「第一巻」、B、Cは序文に「No.2」「No.3」とある。「隅田川絵巻(絵巻隅田川)」の文字が、Aにはない。「第一巻」を「No.1」と読み替え、これらを共通する通し番号とみなしてしまうのは少し苦しい。
制作年代の連続性に関しては、AとB・Cがワンセットであることを示唆するのではなく、義夫がこの時期、絵巻の制作に入れこんでいたようすを物語るのであろう。直前の昭和9年夏には、故郷・館林の城沼をモチーフとした、やはり長大な絵巻を描いていたという証言もある。
作家がある時期に特定の手法に凝って繰り返し試みる、くだけていえば「ハマってしまう」ことは、けっしてめずらしくない。同時並行で、複数の絵巻を描いていた。没後に残されたものが同一作のように扱われ、表具もそろえられ、混同されたという経緯だろう。Aの所蔵館での管理名称、改めるのがよいと思うのだが……
B、Cはワンセット。Dはどうだろうか。
Dには通し番号や、タイトルにあたるものが入っていない。描かれた風景からすると、ネーミングは館の名称どおりの《隅田川下流図絵巻》で差し支えなさそうだ(東京都の管理名称《隅田川両岸画巻》を参考にした名づけながら、「~図絵巻」と、独自色もある点が興味深い)。
問題となるのは描写や体裁で、B、Cよりも引きの構図が多く、連続性を無視してぶったぎるような場面転換が見受けられる。全長は短く、線の質も弱い。下部に地名が記されるなどの違いもある。
洲之内徹さんがすでに示しておられたように、習作・下絵など構想段階のものとみてよいだろう。(つづく)
※管理名《隅田川両岸画巻》は、その後、東京都現代美術館に移管。現在に至る
※《隅田川両岸画巻》という呼び名は、北斎《隅田川両岸一覧》が着想源であるという点が鵜呑みにされた感がある