両極の美意識 朝鮮半島の陶磁器:1
前回更新分のカバー写真は、机の脇にある絵はがきコーナーの、このところのようす。
根津美術館の《青花秋草文壺》(朝鮮王朝時代・18世紀)の文様を接写したもので、中期白磁のやわらかな肌、薄い呉須でさささっと描きつけられた秋草のたおやかな筆線がじっくりと観察できる。
いくら観ても、いっこうに飽きることがない。こうして記事を書いている最中にも、この額のほうをちらちらと見遣っている。
秋でもないのに秋草というのもあれな気がするけれど、そもそも「秋草文」は通称であって、特定の植物や季節が判明しているわけでもない。しばらくは、これでいくことになりそうだ。
机の右脇の額には、設置場所の都合上、縦位置の絵はがきしか飾れない制約がある。
もうひとつの絵はがき用の額には制約がなく、縦でも横でも対応可能。こちらには、紫陽花を描いた色鍋島の絵はがきを入れている。松岡美術館で購入したもの。なんとも清らかなお皿だ。
またしても季節感を度外視したチョイスだが……その時々の気分しだいで、すきなものを入れて楽しめればそれでよいではないか。季節のほうがじきに追いつくことでもあるし……
それにしても、李朝と鍋島というのは、対極にあるようなやきものである。意図せずこのようになって、わたし自身が驚いている。
草体と真体。民と官。厚手と薄手。やわらかさとかたさ。
もちろん、すべてがどちらか一方に偏るというものでもなく、かんたんには割り切れない(秋草の壺も官窯の作だ)。それに、この2点を「清冽」といった表現で括ることだって、じゅうぶんに可能とも考えられる。
けれども一般的な理解としては、李朝と鍋島はやはり両極に位置するやきものであろう。
「李朝はすきだけれど、鍋島はちょっと……」という嗜好の方も、その逆の方も、案外にというか普通にたくさんいらっしゃるのだ。
そんななか、わたしの場合はどちらともを愛好しているというだけの話である。
李朝と鍋島はそれこそ「極端な例」といえるが、似たような構造は、朝鮮半島の陶磁史のなかでもみられる。
朝鮮王朝時代に製作された(いわゆる)「李朝白磁」と、高麗王朝時代に製作されていた「高麗青磁」の異なる美意識が、それにあたるといえよう。(つづく)
※近年「李朝」という語彙は学術的には積極的に用いられなくなりつつあるが、当ページでは多くの豊かなニュアンスを含んだ「李朝」の語を、あえて用いることとしている