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なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う
俗世にこの身を晒しながら、胸中ではいつも隠遁の生活を希求している。
それでいて、棲み慣れた世を一挙に捨てきれてしまうほどの覚悟も決意も持てないでいる人間が、いかに世間に折り合いをつけて生きていくか。
こまりごとに直面したとき、小津安二郎のこの言葉をそっと反芻し、目の前の事象に照らし合わせる。自分にとって物差しやコンパスのような言葉だ。
大和三山の最高峰・畝傍山に登拝したことがある。
山のマップには、実線と破線の2つのルートが示されていた。
実線のルートはよく踏み固められ、あれこれ整備されていることだろう。たかだか片道20分のなんちゃって登山(!)にしても、登山じたいに不慣れなのだから、行き帰りともこのルートをとるのが正解のはず。
ところがわたしは「来た道をただ戻るだけではつまらない、せっかくならば違った風景も見てみたいな」と思う。
多数派が選ぶ実線のルートは、きっとこの山のスタンダードを示している。山のもつ魅力を端的に感じ取るコースどりになっていて、往復すれば、それが二度も楽しめるだろう。
自分の頭で多くを考えることなく、山頂からの眺望を容易に我がものにもできる。
どちらのルートをとっても、登頂という結果は同じ。それならば、より楽な選択肢のほうがよいのでは……これはいわば「流行に従う」判断といえよう。
それに、翌日は仕事。
怪我や遭難(繰り返すがそうはいってもたかだか片道20分)、職場に疲労を持ち越すリスクといった「重大なこと」を考慮すれば、まわりの人に迷惑をかける危惧を低減できる安全性の高いルートを行くべき。これは「道徳に従う」判断だ。
――迷った末にわたしは、破線のルートを登り、推奨されたルートを下ることを選んだ。
急斜面の岩盤上を木の枝や根を掴みつつ這うようにしてよじ登るのは、率直に言ってつらかった。
だが、より美しいもの、より聖性を帯びたものの核心に触れようとあがく行為こそが、わたしの「芸術のこと」。今回の畝傍山登拝は、それを体現しているではないか。
気障な言い方をしてしまったし、余計な体力を消耗しただけでめぼしい成果は挙げられなかったのだが……それでも「自分に従う」判断の後味は、けっして悪くないと思ったのだ。
判断を誤らぬため、少なくとも後悔のせぬ判断をするためには、判断をする「自分」の感性を磨きつづけていかねばならない。
よいものに触れる体験を淀みなく積み重ねる。時に、自分にとって異質なものに出合おうとも、そのエッセンスを受け容れ、採り入れてしまうような柔軟さが肝要だと思っている。
登る山の頂は霞がかって目視できず、いつになってもたどり着けない。それでも登りつづけるのだ。
(本日のカバー写真)畝傍山頂から耳成山、三輪山系を望む。耳成山の麓は『麦秋』ラストシーンの舞台。