禅宗の美:2 /大和文華館
(承前)
中国の伝説上の仙人たちは、禅者の理想像として、さかんに絵画化された。
雪村周継《呂洞賓(りょどうひん)図》(室町時代 重文)は、本展のメインビジュアルに起用されるように、たいへん強い印象を残すもの。
小瓶から召喚された子どもの龍の繊細な筆遣いに比して、呂洞賓の衣文線のなんと墨色鮮やかで、大胆なことか。それを引き立てるのは、呂洞賓の奇矯なポージングと暴風であろう。
イナバウアーのようなポージングと手の形を、作品の前で(こっそり)真似してみたが、こうも上手くは決まらなかった。
龍の巻き起こす風は、道服を大きくなびかせる。よく考えると、髭と白い紐のなびく方向だけが逆になっている。物理法則のとおりに髭も左になびいていたとしたら……この絵から受ける感じは、だいぶ違ってくるだろう。雪村の工夫を感じさせる。
龍は、合計4匹描かれている(異時同図含む)。数えて、描き分けを比べてみるのもおもしろい。
可翁《竹雀図》(南北朝時代 重文)、伝周文《山水図屏風》(室町時代 重文)といった、館を代表する水墨の逸品も。どちらも、空白に余情の横溢する味わい深い作である。
《竹雀図》には、余白にスズメがもう1羽いた痕跡があるというが、そうだとしても、なお余りある情感といえよう。
《山水図屏風》には、鑑賞者に画面の奥行きを感じさせるための工夫が随所に。牧谿に倣ったとおぼしい、霞たなびく湿潤な空気の表現はもちろん、右隻の2本の谷川が、画面の奥側からほぼ垂直に流れてくる点などは興味深い。
展示の最後を飾るのは、再び雪村周継《花鳥図屏風》(室町時代 重文)。
一双屏風だが、今回は、湖水に集う水辺の鳥たちを描く右隻(下のツイート右)のみの展示。
この右隻において、いきいきと躍動するのは鳥たちだけではない。雪村の筆にかかれば、植物も岩も、山すらも、つられて動きだしそうなほどだ。
それにしても、一双屏風の片方だけとは、ありゃりゃどうしたのかしら……と思ったけれど、後日届いた館からの案内には、来春の「春の訪れ 梅と桜」展に左隻が出品予定と記載されていた。左隻には、梅が描かれているのだ。
「春の展示も観に来てね」ということか。秋すら深まらぬうちに、いまから春を待ち侘びる心地である。
※その前に、秋には呉春の特別展が控えている。《白梅図屏風》(逸翁美術館 重文)など、他館から代表作を迎えて開催。
——大和文華館が、日本を代表する東洋美術のミュージアムのひとつだと認識しているのは、なにもわたしだけではないはずだが、他館と違って展示室は1室しかなく、その制約のもと、展示点数が常に絞られているのは大きなポイントといえよう。
つまり、企画の質や収蔵品において優れているのだといえるし、「疲れない程度」「集中力が保たれる範囲内」の広さ・点数ゆえに、よい記憶が残る側面もあるのだろう。
奇想の画家や浮世絵版画、日本画といったキャッチーな分野は皆無だけれど、とても重要な美術館である。
そんなところに、気軽に通えてしまう距離に住めるというのは、それだけで喜ばしいことだ。
大和文華館をつくってくれた近鉄さん、いつもありがとう。
今度は、自転車でなく近鉄線に乗って、大和文華館へうかがいますね……