「コスモス寺」般若寺
「コスモス寺」として有名な般若寺に行ってきた。コスモスの季節にうかがうのは初めて。
近鉄奈良駅からバスで北上。「般若寺」のバス停を通り過ぎて、2つ先の「奈良阪」で下車した。うっかりではなく、あえてのことである。
奈良阪を越えれば京都府。大和国と山城国を結ぶ交通の要衝に、般若寺は位置している。地形をみると、両国の境界には平城山(ならやま)の丘陵が横たわっているが、奈良阪のあたりでそれが途切れ、道が通せる。この位置関係や距離感を、確認しながら歩いてみたかったのだ。
バス通り西側の旧道を引き返していく。1本入れば生活道路の趣で、街道筋の面影をとどめる界隈だ。寄り道しつつ、般若寺をめざした。
奈良阪のバス停から般若寺まで、じつのところ徒歩10分強の近さではある。神社での時間を除けば、あっという間に着いてしまった。
般若寺を訪れる多くの人がセットでプランを組むと思われるのが、すぐ向かいにある「植村牧場」。わたしも、ここの牛乳やソフトクリームがだいすき。ウシをはじめとする動物たちを愛でつつ、付随するレストランの開店を待った。
牧場の牛乳をふんだんに使ったクリームコロッケなどを堪能。レストランの室内からは、般若寺の楼門(鎌倉時代 国宝)が丸見えだった。ほんとうにすぐ向かいで、間の道幅は非常に狭いのだ。
以前はこの楼門をくぐって入ったように記憶しているが、今回は閉鎖中。コスモス・シーズンの繁忙期ゆえか、常にそうなったのかはわからないが、門の右奥・駐車場側から境内に入った。
いまでこそ、ご覧の「コスモス寺」だけれど、このイメージはじつはそう古くなく、40年ほど前からの話。
それまでは、鎌倉期の十三重石塔の名品があることと、護良親王が経巻の詰まった唐櫃に隠れて難を逃れたという『太平記』のエピソードによって、主に人口に膾炙していたはずだ。
エピソードの舞台とされるのが上の写真の一切経蔵であり、そのときの唐櫃と伝わるものが宝蔵堂には展示されていた。
般若寺の主要な文化財は、先に触れた楼門、十三重石塔、一切経蔵に加えて、本堂の御本尊《八字文殊菩薩騎獅像》(重文)や《笠塔婆》(重文)など、ほとんどが鎌倉時代に制作されたものだ。
飛鳥時代に起源が求められ、聖武天皇が平城京の鬼門守護を祈願すべく大般若経を奉じたことに寺号を由来する般若寺は、源平争乱時に平重衡による南都焼討に遭い、壊滅的な被害を受けた。大和国に入って最初の大寺が般若寺となる。京街道に面した要衝を攻略しておく意味でも、格好の標的になっただろう。
鎌倉時代、西大寺の叡尊によって伽藍の再建が進められ、堂宇や宝物が再び整った。そのときにそろえられたのが、般若寺に現在残る主要な文化財である。
だが、昭和39年(1964)、十三重石塔のイメージを変える新たな発見があった。解体修理中であった石塔の五重目から、白鳳期(7世紀後半)に制作された金銅仏《阿弥陀如来立像》(重文)が見出されたのだ。
古代寺院としての般若寺の遺物は、石塔の内部にずっと秘匿されていた。
白鳳仏をはじめとする石塔からの発見物を、般若寺では春秋に特別公開している。今回も、本堂裏の宝蔵堂でひととおりを拝見できた。
白鳳仏は童顔で頭身が低く、手が大きい。少年のようなあどけなさ、まっすぐさを感じさせるみずみずしいお像であった。
八重目から出てきた毘沙門天などの小像はコンディションが安定せず、ホルマリン漬けのまま鑑賞。水槽らしき容器に入っていて、遠目ではなにか生物でもいるのかと思いきや、違った。薬品の目への影響を避けるため、長時間覗くのはNGとの由。
般若寺は戦国時代、松永久秀の南都焼討においても被害を受けている。久秀の居城・多聞山城が目と鼻の先というのも、よくなかったか。奈良阪という立地が、またも悲劇を生んだ……
鎌倉時代、叡尊が復興した丈六の文殊菩薩像は、このとき焼失。そのさなか、かろうじて火中から持ち出された眷属・最勝老人の手首、優填王(うでんおう)の太刀も、宝蔵堂で拝見。
主を失った豪壮な太刀、そして、皺や骨・皮が生けるがごとくに刻みこまれた手首は、たいへん印象に残った。
——時代や時間に洗われ、変化を遂げて寺は続いていき、宝物は失われたり、残ったり、現れたり。
きれいなコスモスも、じきに枯れていくのだ……諸行無常を感じさせる、秋の奈良阪であった。
※宮本武蔵の般若坂の決闘は、吉川英治による創作のようだが、般若坂とは般若寺のある奈良阪のこと。境内にはこの碑がある。萬屋版武蔵の映画ロケ地は飛火野。