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石上神宮の禁足地へ 奈良・天理
けっして立ち入るべからず……そのように言い伝えられてきた土地を「禁足地(きんそくち)」という。
奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)にも、禁足地がある。
一般的な神社では、御神体を祀る場として本殿が、参拝者が柏手を打つ場として拝殿が設けられるいっぽう、石上神宮にはもともと本殿がなく、あるべき場所が禁足地となっていた。つまり、参拝者は禁足地に向けて祈りを捧げてきた。
この禁足地への特別参拝が、3日間に限って許されると聞き及び、馳せ参じた。
ひと月前の、9月22日のことであった。
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天理駅から徒歩30分。
あいにくの天候であったが、ほとんどは商店街のアーケードをひたすら突っ切るだけで濡れずにすんだし、レトロな店構えが楽しくて、あっという間だった。
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さらに山側に進んでいくと、宗教都市然とした空気が道路を境にして終わり、斜面が一段高くなる。ここまで来れば、石上神宮はすぐそこ。
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奈良盆地東端の山裾に沿って、古代の道「山の辺の道」が通っており、古墳や古社寺が田園のあちこちに分布している。わたしが愛してやまないこのハイキング・コースの起点となるのが、石上神宮である。
山の辺の道を初めて歩き通した日も、やはり天理駅からアーケードを抜けて、石上神宮にやってきたのだった。かつての自分に出会うような、そんな心地がした。
あのとき、早朝の石上神宮には他に誰一人おらず、朝もやとともに厳かな空気が漂っていたものだが、禁足地への特別参拝という滅多にない好機に多くの人びとが参集するなかにあっても、厳粛さはなお保たれていたのであった。
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上の写真・中央奥の白いテントにて受付、続いてお祓いをすませたあと、赤いポールに沿って右手側へ。そこから先は、通常の参拝では足を踏み入れることすら許されない場所で、当然ながら撮影は厳禁となっていた。
拝殿の両側から伸びる瑞垣に囲まれた四角形の空間が禁足地で、中央に本殿が立っている。今回の特別参拝では、瑞垣に沿って禁足地の外周をぐるり歩くとともに、南西側の門が開け放たれ、禁足地の内側が窺えるようになっていた。
北に進むにつれ、瑞垣は高く見上げる位置になっていく。そのため、禁足地がよく見えたのは最初の南西側だけではあったものの、古代とあまり変わらないのではというほどの深い森に入ることができて、たいへん感激。
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石上神宮は、古代の有力豪族・物部氏の社。蘇我氏との熾烈な政争の末に滅ぼされてしまうものの、氏神だけは残った。武勲の誉れ高い一族で、石上神宮は大和朝廷の武器庫を兼ねていたといわれる。
そんな石上神宮の御神体は、『古事記』や『日本書紀』に名前がみえる神剣「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」。現在は禁足地内の本殿(大正2年築)に安置されているものの、近代までは長らく土中にあった。拝殿から禁足地に向けて祈りを捧げてきたのは、そこに布都御魂剣が埋められていると伝わってきたためである。
明治7年(1874)、古文書『石上大明神縁起』の記述にもとづいて、当時の大宮司・菅政友みずから禁足地を掘ったところ、言い伝えどおりに布都御魂剣が現れた。水戸藩で『大日本史』の編纂に携わった経歴を持つ菅の実証的な姿勢が、石上神宮に神剣の顕現をもたらしたのだ。これを機に、神剣や同時に出土した勾玉などの御神宝を奉安するための本殿が、禁足地に建てられた。
菅による神剣の発掘から、今年で150周年を迎えることを記念して、このたびの特別参拝が許された。
石上神宮には、布都御魂剣の他にも「武の社」であることを示す宝物がいくつも残されている。6つの枝が生えた謎多き《七支刀》(古墳時代 国宝)、巨大な双子の鉄製シールド《鉄盾》(古墳時代 重文)、足利尊氏の奉納品といわれる《色々威腹巻》(室町時代 重文)などである。
石上神宮には宝物館がなく、これらを拝観できる機会は少ないけれど、《七支刀》に関しては、奈良国立博物館で来春開催予定の「超 国宝」展に出陳予定。
今回、禁足地を間近で拝見できたことで、「超 国宝」たる《七支刀》が、少しだけ近い存在に思えるかもしれない。
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——この参拝がちょうど1か月前ということは、つまり、奈良に来てようやく1か月が経ったわけだ。
近々、山の辺の道をまた歩こうと思っている。スタートの場所はもちろん、石上神宮。奈良暮らしの近況を、禁足地におわす神剣に向けて語りかけたいものだ。
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山の辺の道、ここに始まる