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東金・八鶴湖と日吉神社参道の杉並木 :4
(承前)
東金・日吉神社の参道には、二の鳥居から本殿までの200メートルあまりに39本の杉の巨樹が屹立している。
どれも、樹齢はおよそ400年。幹まわりは、太いもので4メートルにもなる。
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元和元年(1615)11月、徳川家康は再び東金へ鷹狩りにやってきた。
このとき、家康は代官に日吉神社の改修を命じている。
杉並木の植樹も、この頃におこなわれたのではないかといわれている。
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東金・日吉神社と同じ「樹齢400年の杉並木」が、全国には他にもいくつか残っている。
日光の杉並木街道や箱根の東海道沿いの杉並木、長野・戸隠神社奥社の社叢などがそうで、どれも江戸初期に計画的に植樹されたものだ。
17世紀前半という時期に、盛んに杉が植えられた背景にはなにがあるのか。今回は深入りしないけれども、調べていったら、きっとおもしろいだろう。
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東金の日吉神社に、話を戻そう。
杉並木を進むたび、突き当たりの社殿が近くなっていく。
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現在の本殿は元和の改修時のものとも、若干あとの時期のものとも考えられているが、17世紀の建築には違いない。拝殿の奥まったところにあって、はっきりと見ることはできなかった。
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社殿正面の左右に控える石像が、また珍品であった。
まるまるとした、一対の猿の坐像。高さは131センチもある。
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日吉山王宮の神使(しんし)は猿であるから、猿の意匠があちこちにあってもなんらふしぎはないけれど、こんなにも大きく、造形的にもユニークなのは想定外で、驚いた。元禄8年(1695)、東金の商人の寄進によるという。
――猿といえば、豊臣秀吉。幼名の「日吉丸」は史実か怪しいようだが、秀吉が日吉大社を厚く庇護したのは確かだ。
さて、家康が東金・日吉神社の整備を命じたのは、先に書いたとおり元和元年(1615)11月。同年の夏には大坂夏の陣があり、豊臣家を滅亡させている。
東金街道を通って鷹狩りに向かう道中、日吉神社の存在に気づいた家康は、なにか感じるところがあり、その整備を命じたのだろうか……などと、空想の翼を広げてみたくもなるものだ。(つづく)
※江戸の日枝神社を総鎮守として崇めたいっぽうで、1回目の東金行では、日吉神社を素通りしていることも気にかかっている