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あれから13年 ただの都会に感じられるようになったバンコク ー第1章ー(2) 家出ハウスの住人たち

ータイの歴史を研究中のドイツ人「Karl」
Karlはストイックな奴だった。タイ語は全くと言って良いほど喋れないのに、なぜかタイ文字の読み''だけ''に特化し、自分のものにしていた。毎日、近所のチュラロンコン大学の図書館に行っては、タイの歴史文献を解読し、いつかドイツ語に訳して出版するんだ、と息巻いていた。タイの歴史を研究する為に、タイ文字の読み''だけ''を習得したという。読みと言っても、読み方は分からないらしい。この文字の意味はこう、この文字の意味はこうと、一つずつ目に焼き付けたとの事だった。

未来のベストセラー作家とは言え、現時点での所持金は少ないらしく、コスパの良いこの宿に流れ着いてしまったのだ。家賃も含め、生活費は1万バーツ以下だと言っていた。よく近所のおいしいタイラーメンの屋台で一緒になった。

最後に彼と会ったのは、シーロムにあるキリスト教系の病院。なぜならKarlがマラリアを発症したから。全身防護服で着飾った保健所の人達が、ある日突然家出ハウスに乗り込んで来て、日頃の鬱憤を晴らすかのように殺虫剤を隅から隅まで撒いていった。
その後Karlの病状が良くなったとの情報があり、バナナを持って病院へお見舞いに行ったのだが、Karlとはそれっきりで、彼がこの家出ハウスに戻ってくる事はなかった。今頃、彼のタイ歴史文献がドイツでベストセラーになっている事はほぼ間違いない訳だが、10年以上経ても快気祝いが届かない事だけが気がかりである。


ー謎の旅人「太郎さん」
初対面で「友達になろうよ!」と握手を求められた、アメリカンな太郎さん。みんなで近所のタイ人向けカラオケに行ったりした時は、オーストラリア仕込みのメルボルンシャッフルというダンスを良く披露してくれた。オーストラリア留学からのタイ経由で、タイの魅力に憑りつかれ日本に帰れなくなってしまったらしい。そういった意味では、アメリカンではなく、オーストラリアンな太郎さん。

僕と同じく、タイでの仕事を探していたのだけれど、ルンピニ公園で一緒にセパタクローをしたり、毎日遅くまで一緒に話し込んだり、多くの時を一緒に過ごした。一番最初に仕事を見つけてシーラチャに引っ越した時なんか、毎晩仕事明けに電話してくるものだから、実家の母親になったような気分だった。そして、当然のように一週間で家出ハウスに出戻って来た。
人と関わるのが大好きな人で、毎日近所で新しい友人を作ってきては、紹介してくれた。僕が未だに親しくしているタイ人のJamなんかも、当時の太郎さんの紹介だった。
ただ仕事となると、日本人の縦社会に対応できず硬くなってしまい、持ち前のコミュニケーション能力が発揮できず、何とも残念だった。太郎さんだけではなく、僕の周りにはそんな人間が多かった。あんなに面白かったアイツがなぜ…誰にでもタメ口で話せてたアイツがなぜ…。日本社会に抹殺される魅力的な好人物は多いと思う。

その後、太郎さんはラオスに旅立ち、数年間もの間、クンダリーニ症候群となって身動きが取れなくなり、音信不通となってしまう。


ーメガネの似合う日本語教師「恒子さん」
この宿の窓無し圧迫修行部屋の中で、静かに細々と暮らしていた、メガネの似合う恒子さん。あまりに細々と暮らしていらっしゃった為、初めの何週間かは存在すら気付かなかった。そんな恒子さんは、自分の小さな幸せ、ー例えば勤め先のサイアムから「今日は奮発して、エアコンバスで帰ってきたのよ!」と自慢げに言う、そんな事を大切にできる、素敵な姉さんだった。

「私と一緒だと、お金溜まるわよ。」と謎のお誘い?を受けた事もあったものの、若過ぎる僕には分からなかった。1万5千バーツという破格のお給料で、2年で20万バーツ貯めたと言っていたので、その節約ぶりは凄まじい。けど恒子さんが自分のあれこれを大切にしてる事をけなす気持ちなんて全く無かったし、小さな幸せを噛み締めて生きてる恒子さんは、何となくバンコクに流れ着いてしまった僕なんかからしたら、たくましく見えた。

恒子さんと言えば、こんな心温まるエピソードがある。
横浜育ちの恒子さんは、海を見て育ってきた。そんな恒子さんは物心付いた時から、あの海の向こうには何があるんだろうと、自然と海外志向指向になっていた訳だが、それを決定的にする出来事があった。
大学生となり、アルバイトで貯めたお金で学費、寮費を自分で稼いでいたのだが、磨き上げられた節約術のおかげで、初めてアジア周遊のバックパッカー的旅行に出かけられる事となった。初めて訪れた海外の国々で、辛い思いや楽しい思いを沢山体験できた訳だが、そんな思い出の片隅に、ふとある日本人男子の名前が同時に記憶されていたという。
その男の名は、旅先のどの国に行っても掲げられていたようで、ごく自然に恒子さんの頭にインプットされていたのだろう。同じ日本人で、こんなに海外で活躍している人がいるなんて…。それまで全く知らなかった、海外という世界。私も頑張らなくちゃ!ーそう彼女を奮起させるものがあった。
大学後の進路もはっきり決めていなかったが、ここでまた新たな目標ができた。帰国後は、「海外で日本語教師をする!」という新しい目標を据えて、未来の自分に向かって着々と進みだしたのだった。いつか私もあのハイネ健さんのようになる、と。


ー駄目な男?を愛してしまう「さや子さん」
「何で私が働いたお金で、タンブン(徳を積むこと、ーお寺への寄進、等々)しちゃってんの!」。その後、日本人とタイ人カップル間で、同じようなトラブルを何度となく目にすることになるのだが、僕にとってそんな経験のトップバッターとなってくれたのが、さや子さんとタイ人の彼氏「三角」のカップルだった。

タイ人の歌手Palmyが大好きで、彼女の曲を歌いたいという一心だけで、タイ語の読み書き・しゃべりをマスターしたさや子さん。タイ国内を旅行中、ミャンマーとの国境の町メソートのバーで、弾き語りを聞かせてはナンパをして暮らしていた三角と偶然、ーそれは必然だったのかもしれない、と出会った。三角は、タイ語でのニックネーム「レン」が「尖っている」という意味なのだが、そこから発想を転換させてさや子さんが名付けた、日本語のニックネーム。このような2人が出会わないはずもなく、お付き合いする事になったらしい。

仕事を探すために、メソートから2人でバンコクに上京。終着駅は上野ではなく、その先にあるファランポーンだった。当然、田舎のイケメンミュージシャンである三角も同行してきた訳だが、タイの田舎暮らしというのは想像以上にのんびりしており、食べるものには困らない、雨風しのげる場所さえあればそれなりに暮らしていけるようで、田舎育ちの三角は、学歴もなければ、ギターとバク転以外、手に職はない。そんな彼がバンコクでまともに仕事などできるはずもなく、職を転々としてやる気はみせつつも、最終的には当然のようにさや子さんのヒモという形に落ち着き、家出ハウスの暇人を代表していた。

僕は三角に、タイの歌やセパタクローを教えて貰ったり、ー男から見た場合に限っての事らしいが、イケメンで良い具合にケツの軽い、魅力的な好人物だった。セパタクローに行く時なんか、ご自慢の白いブリーフの上にトランクスを履いてハイソックスという精悍な出で立ちで、タイ人の男女問わず独特のスラリとしたスタイルの良さが、際立って見えた。

その年の大晦日。日頃から三角や仕事への鬱憤の溜まっていたさや子さんは、朝から飲んで荒くれていた。一方、三角は「タンブンだ!」と言って、一年の心の垢を洗い流すため、大晦日の断酒を決行。普段はみんなからお酒を恵んで貰ったり、さや子さんから貰うお小遣いでタダ酒を飲んでいた三角だったが、翌朝の「成し遂げた」感のある顔が、今でも忘れられない。

※登場人物は全て仮名です。

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