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あれから13年 ただの都会に感じられるようになったバンコク -第2章ー(1) 僕とNatの出会い

僕が初めてNatに出会ったのは、まだ移住前にタイヘ旅行で来た時だった。まさかこの子の為に、一瞬でタイに出戻りする事になるなんて、夢にも思っていなかった。
食事が合わずボロボロになって帰ってきたミャンマー周遊の旅からの帰りに立ち寄ったバンコクは、都会的でもあり田舎的でもあり、何を隠そう、魅せられてしまったのだ。

地下鉄MRTクロントゥーイ駅。なぜこんな所に地下鉄の駅があるのか、地上に出てみるとさっぱり理解できない立地ではあったものの、この旅行時から拠点にしていた家出ハウスからもそう遠くはなった為、利用する機会は多かった。
まだ土地勘などほとんどなく、クロントゥーイ駅から地上に出て、家出ハウスの方向を見失ってしまった。近くを銀行のロゴが入った白いポロシャツを着たかわい気な女の子が通りかかったので、地図を手元につたない英語で道を教えて貰った。それがNatだった。
笑顔と、長い艶のある髪が、かわいかった。何か困った事があったら相談させてよ、と少し強引に携帯番号を教えて貰った。自分自身は携帯電話なんて持っていなかったから、地図の端にNatの携帯番号をしっかりメモしておいた。 -これは面白い事になるかもしれない。電話でちゃんと英語が通じるか分からないけど、いつか電話をかけてみよう。

まさかこの子の為に、蝶のようにタイへ舞い戻ってくる事になるなんて、当時の僕は知る由もなかった。もしあそこでNatに声を掛けていなかったら、電話を掛けていなかったら、その後の僕の人生は全く違うものになっていたのだろう。
日本社会での生きづらさを感じて早十数年。心の何処かで「飛び立つ時が来た!」と思っていたのかもしれない。


何日ぐらい経った後だろうか、ふと思い立ってNatに電話をかけてみる事にした。近所の公衆電話BOXには先客がいたけれど、Natに電話をかける前の心の準備ができたから、ちょうどよかった。長電話の後の、ちょうどカラオケのマイクぐらいに程よく臭った受話器を手に取り、大きく息を吸って吐きそうになりながら、投入口にコインを入れる。
しばらく待ってみたが、受話器からは何の音も聞こえなかった。そう、当時タイでどちらかと言えばメジャーだった、いくらコインを入れても宇宙としか交信できないブラックボックス型の公衆電話だったのだ。
その後、周囲を徘徊し、ブラックボックス型でない公衆電話を探し当て、Natに電話を掛けた。彼女は仕事中だった。その日Natが仕事を終えるのを待って、一緒にご飯を食べる事となった。待ち合わせ場所は、Natが働いていたK銀行の近くの、歩道占拠型のタイ料理屋さん。
タイ料理には全く疎かったので、Natが色々おすすめを選んでくれた。トムヤムクンを食べたのも、この時が初めてだった。何も知らなかったので、中に入ってた硬いタイショウガやコブミカンの葉まで、全部綺麗に食べ尽くした。世界三大スープと言われる割には、随分と変わった食材を使ってるんだな、と思った。
この日からだった。毎日Natの仕事が終わるのを待って、ご飯を食べに行ったり、アパートまで送り届けたりした。本当に大した事じゃなかったけど、それだけで楽しかったし、Natの気を引くのにも精一杯だった。

Natのアパートは、クロントゥーイから地下鉄でラップラオまで行き、それだけでも結構遠いのだが、そこからさらに大渋滞の中バスに乗ってメジャーラチャヨ―ティン前で降り、メジャーラチャヨ―ティンの裏手に広がる学生街のような所にあった。勤務地からも遠いし、何でこんな所に住んでいるのか聞いてみたのだが、どうやら学生時代からこの辺りに住んでおり、卒業後も、そのまま居心地の良くて顔が利くこの学生街に好んで住んでいるようだった。
アパートは、ドアを開けるとベットが置いてあるだけの狭い部屋だったが、この狭い部屋で、学生時代からの友人Aeと一緒に暮らしていた。後々、アパート代の節約、及びお化けが怖い事を理由に、二人暮らしをしているタイ人が多い事を知った。

タイ人にとっては普通な事なのだけれど、Natは副業をしていて、メジャーラチャヨ―ティン前の市場で、他所で仕入れてきた化粧品を販売していた。銀行員をしながら化粧品売りまでしていて、なんてまじめな子なんだろう、と一層Natの事を愛おしく感じてしまった。
折り畳み机を広げて、化粧品を並べるだけだが、一緒にお店を開くのを手伝ったり、意味も分からず「ドゥ―ゴン ダイ ナ カー(見るだけでもいいですよ)」と呼び込みのマネをしてみたり、日本でつまはじきにされた僕にとっては、全てが新しい経験で、かつ刺激的だった。
化粧品の売り上げ自体も、そこそこ盛況だった。なぜなら目の前のメジャーラチャヨ―ティン内で売ってるものと同じ化粧品を、半値ぐらいで売っていたから。化粧品の仕入れにもついて行く機会があったのだが、ドンムアン空港近くの化粧品卸売り市場みたいなところで、本物だか偽物だか分からない化粧品が山のように売られていた。その本物だか偽物だか分からない化粧品を、さも本物のような顔をして売るのだ。

Natの生活は苦しいようではなかったが、安定しているような感じでもなかった。大卒で銀行員。副業もそこそこ稼げているのに…。それだけがいつも疑問だった。土曜日、Natが休日の時にアパートに遊びに行って、その原因はあっさりと判明した。それはタイ人の常、トランプ賭博。
何度かその輪に入れて貰ったことはあるものの、運任せの要素が強いトランプゲームは個人的にあまり好きではなく、ただ友達4,5人でやっているだけでも結構な額が動いている事が分かった。銀行と化粧品販売でそこそこのお金は稼ぎつつも、賭博で収入はプラマイマイ状態だったのだ。

それでもNatとの生活が楽しくって、帰りの飛行機を2回も延長してしまった。だが、もうこれ以上の延長はできない。日本に帰らなければならない。

日本への帰国日。Natや、もはや僕も顔見知りとなった学生時代からの友達5,6人を集めてMKのタイスキでお別れパーティー。見知らぬ男が一人交じっており、Natの隣に座ろうとする僕を、阻止しようとした。 ー何をする!ははーん、さてはこいつもNatの事が好きなんだな。英語は全く通じなかったけど、どうやらその目つきや態度から、ライバルである事は間違いなかった。よし、絶対にすぐ帰ってきて、俺がNatと付き合ってやる! そう強く心に決めて、タイを後にした。

※登場人物は、全て仮名です。

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