奇跡であるかのように生きる@最終回しもつけ随想
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■あたりまえにモノゴトをみるココロのクセ
私たちの心にはいくつかの癖のようなものがあります。そのなかでも「ものごとをあたりまえにみる」心の癖について考えてこの随想を閉じたいと思います。たとえば、子どもの頃を思い出してみてください。道端に生えている草、そこにいる小さな生き物。あるいは空を飛ぶ鳥たち。通りすぎる自動車。目に映るすべてのものが新しく、そのすべてに好奇心を抱いていたのではないでしょうか?しかし、いつの頃からか、その目に映るものがあたりまえに映るようになってしまいました。
■「あたりまえ」がストレスを生む
歳を重ねると経験は確かに増えますが、その分、ものごとがあたりまえにみえてきてしまいます。あたりまえに見るということは思考を自動化するということになり、脳はエネルギーを消費しなくなり楽になるでしょう。ですが、心は異なります。例えば、あたりまえにみることでストレスが発生しやすくなります。「電車が時刻通りに来てあたりまえ」と思っていたところに、時刻通りに電車が来ないとなると、急に腕時計を見始めてイライラするという光景は容易に浮かびます。電気も水道も同じです。あたりまえだと享受していると、その「あたりまえ」が破綻した途端、ストレスとなります。
■生きてることは「あたりまえ」?
そもそも、「あたりまえ」という状態はあたりまえなのでしょうか?実はわたしたちが見逃している非常に大きな勘違いがあります。それは「生きていることがあたりまえ」だと思っていること。毎朝当然のように目が覚めること。毎日当然のように息をしていること。諸行無常といいますが、本来私たちが生きていること自体があたりまえではないのです。自分のいのちも含めて常に存在するということはないのです。ということは、あたりまえに見ること自体が虚構となります。つまり正しくものごとを見たときに、そこにあたりまえという見え方は存在しないのです。
■あたりまえの反対は?
では、あたりまえの反対の概念は何でしょうか?それは、そこに存在していることそれ自体が尊いこと、貴重なこと、ということになります。それらの意味を表す言葉は「有り難い」となります。存在すること自体、すなわち有ることが難しいという意味です。私たちが普段使う「ありがとう」という言葉のルーツにはこのような深い意味がありました。しかし、これもあたりまえに受け止められがちになってしまっています。
■自分の人生を生ききる
この随想ではモノの時代からコトの時代へのシフトがテーマでしたが、モノの時代は、モノが溢れていつしかあたりまえになり、それが逆にストレスになったと概観できます。しかしながら、コトの時代はそうではありません。積極的にあたりまえではない自分の人生を生きていくこと、それが鍵となります。
最後にアインシュタイン博士の言葉を紹介してこの随想を閉じたいと思います。
「人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。」
(2019年12月18日掲載)