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目的がないことを、楽しむ

はじめに

みなさま、ごきげんよう。

4月もあっという間に19日である。

実は先週土曜日、koboくんとボードゲームの制作・研究を行う為に、一日部屋にこもりきりであった。研究対象として、プレイしたボードゲームは「ネメシス」というゲームである。

だいたい3hくらいかけてゲームの準備&ルールを把握し、その後、立ち回り方をあーだこーだ議論しながらプレイする...という感じで時間が溶けていった。

プレイ時間からわかるように、ボードゲーム・フリークを対象とした作品であったものの、我々のボードゲームへ還元できる点も多く含まれていたので収穫は大かった。ぜひ気になる方は上記ページをチェックして欲しい。

さて、今日のトピックは「目的がないことを、楽しむ」というものである。

とかく我々はこの現代社会を生きていると、目的をいやがおうでも設定しなくてはいけなくなる。

会社の面接では根掘り葉掘り経歴に関して目的を聞かれる。YouTubeをつけてみれば、ビジネス系YouTuberが「漫然と生きてんじゃねぇ。目的を設定して生きろ!」と話している。宗教の勧誘のビラを見たら「あなたの人生の目的はなんですか?」と記載されている。上司からの電話をとってみたら「お前のタスク、なんの為にやってんの」と詰められる。なんなら、自分の人生についてもクソみたいな目的を持たなきゃいけないらしい。

面倒くさい。

目的を常に考えなきゃいけないなんて、すごく面倒くさい。でも、目的から逆算して考えるフレームワークは競争社会、そして資本主義社会においてすごく効果的だからやむなく目的から考えるしかない。

いつから私達は目的を常に考えなければいけなくなってしまったのだろうか。

目的がない、ということ

何を隠そう、私も目的ばかりを考えなくてはいけない環境に飽き飽きしていた。

そんな時、目的をわざわざ考えなくてもいいものを見つけてしまった。それは「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」(以下「BoW」という。)である。

ゼルダの伝説には終わりがない。ゼルダ姫を助ける、という、ゲームのエンディングを見る為に「ゼルダ姫を助けに行く」という目的は(一応)存在しているものの、プレイヤー一人一人に楽しみ方及び目的の設定が委ねられている。

野草・虫・動物を収集する為だけに野山を駆け抜けたり、ゴブリンをひたすら倒しまくっていても良い。景色も非常に良いので、ただただ様々な地方を巡って、時間帯・天気毎の風景を眺めに行っても良い。気に入った場所・馬宿・村に留まって、そこを拠点に行動しても良い。"祠"というクエストをひたすら巡るだけでも良い。

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(画像:任天堂|ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド 1st トレーラー;このゲームの雰囲気が端的にまとまっている動画である。オススメ)

このゲームでは、自分なりに目的を設定しなくてはならないし、なんなら目的を持たずに行動することが許容されている。

私は、このゲームをプレイする度にえも言われぬ開放感を感じていたのだが、その開放感が、実は「目的を持たなくても別に楽しめる」ことに基づいていることに最近気付いた。

でも、一歩立ち止まって考えてみると、私達一人一人の人生や行動だって、目的ずくめで思考していく必要はないといえる。「自分の人生をどう使うか」について、誰しも決定権を握っているのである。

"Truth is stranger than fiction." <事実は小説よりも奇なり> という名言もあるが、おそらく「人生はゲームよりも奇なり」である。人生はゲームよりはるかに自由度が高い。しかも、未来のことは誰にもわからないので攻略法などは存在しない。なんなら目的を持っていなくとも、人生という場には無限大の楽しみ方がある。

つまり私達は【目的がない中を・自分なりに楽しむ方法】を人生という"場"の中で試されているのである。自分なりの目的を設定して人生を生きてもいいし、勿論目的を設定しなくても良い。それは、当該個人に委ねられているのだ。

目的がないことを、楽しむ

改めて今日の表題に戻ろう。

ここまでの文章の中で、人生という場には目的が存在しないことを記述した。よって、「目的がないことを、楽しむ」というトピックは、「人生を楽しむ」ことと同義である。

しかし、人生には目的が設定されがちである。例えば、小学校に入れば「成績表をできるだけ良い成績で埋めること」が目的として設定されがちだし、親は子供に対し当該目的にフォーカスするように圧力をかけることもあるだろう。

世間という不特定多数の人々からの同調圧力も見過ごせない。男性であれば、「高給取りになって・女性を養い・一定の地位に就いている」ことが賞賛され、なんなら人生の目的にこれらの目的を置かないとゴミ同然のように見做されてしまうような圧力を感じることさえある。「うわっ、俺の年収低すぎっ?!」なんて広告が出ることだってある。

良い学校に入ること。みんなと同じような人生を歩むこと。たくさんお金を稼ぐこと。そのために一流企業に入ること。男性らしくあること。女性らしくあること。世間の人々から見て格好良く生きること。(繰り返しになるが)私達の人生は、知らず知らずのうちに目的を設定されてしまう場合がある。

外部から人生の目的を設定された場合において、その目的を全く達成できていない自分に不甲斐なさや失望を感じることさえある。

でも、その目的は、果たして自分で設定したものなのだろうか? その目的が達成されたところで、果たして自分は心から楽しめるのだろうか?

私達の人生は「BoW」よりも自由度が高い。自分じゃない誰かに押し付けられた目的の為に、無限大の楽しみが存在しているこの人生という"場"を使ってしまうのは勿体無い。

だから私は声を大にして言いたい

人生という無限大の楽しみがある"場"に於いては、自分で目的を設定するのがベストだし、目的を持たなくても許されるのではないだろうか......というのが現時点での私の考えである。

先ずは自分の人生の目的が、他人から与えられたものなのかどうか・バイアスがかかっていないだろうか......と意識的になるだけでも、人生の楽しみ方は変わってきそうだ。

目的ずくめの人生を、今日も生きていくわけだが、「ゼルダよりも自由度が高い"ゲーム"をプレイしているんだぞー」と自分に言い聞かせながら、自分なりに頑張ってみようと思う。

(taro)

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