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死刑に関して考えてみる vol.1

先週の金曜日、このアカウントの共同執筆者であるkoboくんとzoomでリモート飲みをした。

その時(正確に言えば、少し前からトピックに上がっていた)、「死刑制度に関して私見を書いてみるのはどうか?」という点が議題に上がった。

そういえば、"死刑"について深く考えたことがなかったなあと思ったので、適当なことをつらつらと書いてみることにする。

"vol.1"と銘打ったのは、もしかするとこの記事のみでは考えがまとまらない気がしたからである。正直、私よりクレバーな学者であったり、法律家たちが議論を重ねても答えが出ていない問題であり、今後も"ベストな解答"が出ない問題であると考えている。

端的に言えば、"死刑"というものが、制度(システム)を通じて、"人命を奪う"という行為に他ならないからであり、いわば"人間が" or "システムが"、他の"人間"の生殺与奪を決定していいのか?という果ての無い議論に行き着くからである。

死刑廃止は、世界的なトレンド

実は、死刑を採用している国や地域は、昨今減少傾向にある。

2018年12月現在、法律上の死刑廃止国(114か国)と10年以上死刑執行をしていない事実上の死刑廃止国(28か国)を合わせると、世界の142か国では死刑がなく、死刑存置国は56か国にすぎません。我が国を含む先進国グループであるOECD(経済協力開発機構)加盟国(36か国)のうち、死刑を存置しているのは、日本・韓国・米国の3か国だけです。ところが、韓国は20年以上死刑執行をしていない事実上の死刑廃止国です。また、米国は2018年12月時点で20州が死刑を廃止し3州が死刑執行モラトリアム(事実上の死刑廃止)を宣言しています(アムネスティ・インターナショナル2018)。
*米国は、2019年、3月にカリフォルニア州が死刑モラトリアムを宣言し、5月末にニューハンプシャー州の死刑廃止法案が可決成立しました。これにより、半数の25州が法律上または事実上の死刑廃止に至っています(EU MAG)。

(出典:死刑制度 いる? いらない?|日本弁護士連合会)

死刑を設置しているなんて、"野蛮" で・"非人道的である"という烙印を押されてしまう時代に突入したのである。

ちなみに、上記資料を作成した日本弁護士連合会も死刑廃止に向けて提言(ロビイング)を行っている。上記資料は非常に論理的でわかりやすいのでオススメである。

日本に於ける死刑廃止派の意見をみてみよう。

・生命の尊重
死刑は、生命を剥奪するという刑罰であり、国家による重大かつ深刻な人権侵害です。
・誤判・えん罪の危険
人が行う以上、誤判・えん罪を否定することはできません。誤判・えん罪での死刑は取り返しがつきません。
・人は変わりうる
目指すべきは「人は変わりうる」との考え方に立った寛容と共生の社会です。しかし、死刑は、罪を犯した人の更生と社会復帰の可能性を奪ってしまいます。

(出典:死刑制度 いる? いらない?|日本弁護士連合会)

つまり、①人の命は大事にしよう ②潔白な人が殺される場合もリスクとしてあるよね ③人間は反省できるし、変われるよ!ということを言いたいわけである。

ちょっと立ち止まって考えてみよう

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本当に、そうなのだろうか。死刑を廃止することが、果たして生命の尊厳に繋がるのだろうか。

もし、身内が殺されたとする。あなたは、この事象に対して悲しみや怒りを抱くと共に、殺害した者を"殺したい"という感情も抱くのでは無いだろうか。

しかし、被害者の家族が、殺害した者に対して報復を行うことは、日本の法律では認められていない。

そもそも、何故日本では"仇討ち"と"自力救済(司法制度によることなく自己の権利を実現すること)"を認めていないのだろうか。

それは、法によって"人を裁く"ということが、国民の利益に資すると考えられており、ひいては国家の繁栄をもたらすとされているからである。この為、"裁判所"を通じて自己の権利を達成するしかない。

ここで論点となるのが、"誰かが殺された場合、その死を招いた者にどのように償わせるのか?"という点である。

目には目を

かの著名なハンムラビ法典(聖書にも同様の記述が見られる)には以下のような記述が存在する。

目には目を、歯には歯を

これは罪刑法定主義、即ち「刑罰を予め定めておくことで、必要以上の報復行為が行われることを抑止し、同等の処罰を与える」という概念につながった思想である。

"人の死"に対して、それ相応の対価を殺害者に対して求めるのであれば、何が適当であろうか。

現状、"死には死を以て償う"しか方法はないのではないだろうか。

私はそう思うのである。

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誰が為の権利?

加えて、被害者の名誉と尊厳、そして人権を守る必要があると考える。

殺害された方の人権は大いに損害を被ったにも関わらず、加害者側の人権ばかりに注意が向いていないだろうか?

死刑を認めることは、「何らかの理由があれば人間の生命を奪ってよい(引用:死刑制度 いる? いらない?|日本弁護士連合会)」という思考に繋がることは間違いない。

しかし、これは同時に加害者側にも適用される論理ではないだろうか。

「人間の命を奪うことは認めない」と、"人間の命を奪った者"が主張するのはいかがなものだろうか。それはまさしく被害者の生命に対する侮辱であり、生命の尊厳に対する挑戦に他ならない。

とはいえ、問題もあるよね

とはいえ、誤判や冤罪によって死刑が求刑されてはたまったものではない。捜査機関や司法機関は完全ではない。加えて、弁護する側の力量にも責任が問われてくる。

また、死刑のみが被害者及び遺族を尊重する行為であるとは思わない。死刑廃止派の言う通り、「被害者家族への心のケア・経済的支援」を併せて提供して行くべきであると考える。

死刑は存続すべきであると考えているが、上記の通りシステムがうまくワークしているとは言い難い状況である。これらに関しては、国民を交えて今一度死刑制度を再考した方が良いのではないだろうか。

マルチステークホルダーで議論することで、思わぬ策が見つかるかもしれない。或いは、よりシステムがブラッシュアップしていく可能性がある。昨今"デジタル・ガバメント"が加速している(今回のコロナ禍に於いても一部拍車がかかったと言われている;東京都が都公式の新型コロナウイルス感染症対策サイトを開発、都はソースコードを公開)。これは、まさしく行政に関してマルチステークホルダーで解決策を模索し、それが結実していることを示すものであり、司法制度に関しても同様の取組みを適用できる可能性を示唆している。

人間が介在することで死刑制度に克服し難い"不完全さ"が存在するのであれば、デジタルという手段を用いて、「感情に左右されないクライテリア」「正確に被疑者を割り出せるシステム」及び「遺族に対するケアの最適解を見つけ、提供できるパッケージ」等を整備していくことはできないだろうか。

世界的なトレンドに惑わされることなく、高度な法治国家であるという矜恃を持って、世界に先駆けた【死刑 2.0】を提供できるのは日本だけであると私は信じているし、それに足るだけのポテンシャルを持っていると考えられる。

読者のみなさんも、ぜひ一度"死刑"について考えてみて欲しい。きっと、"生命の尊厳"を考え直すいい機会になると思う。

(taro)

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