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文明と、そのカタストロフィのパターンについて調べてみた|Vol.3 大英帝国編

はじめに

大英帝国は全盛期においては世界史上において最大の帝国であり、唯一の超大国の地位に就いていた。19世紀およそ1世紀間を通じ、巨大な力を一国に集中し世界秩序の明確な担い手となった。

第一次世界大戦終結から第二次世界大戦までの間は、アメリカ合衆国と並ぶ超大国であった。第二次世界大戦後にはイギリスは超大国の地位から降格し、海外植民地が独立してイギリス連邦が発足した。

冷戦期にはアメリカ合衆国と共にソビエトが超大国になった。現在のイギリスは「老大国」であり、多くの人々は「世界大国とは中国とアメリカ」というイメージを持っている。

また、1902年に調印され、第一次世界大戦までの間、日本の外交政策の基盤となった日英同盟や、王室関係、ロンドンオリンピックなど日本との関係が深い国でもある。

つまり、「大英帝国がなぜ衰退してしまったのか?」という問いは、近現代における文明の衰退パターンを考える上で重要なポイントであると考えられる。

大英帝国の興隆

大英帝国が覇権国家として君臨した19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間の事を、ローマ帝国黄金期の「パクス・ロマーナ」にならい「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ぶことがある。
大英帝国が確固たる地位を築くに至った理由は、様々な要素が存在するものの、ここではターニングポイントとなった以下3つの戦争を取り上げたい。

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①16世紀の「スペイン無敵艦隊」との戦い(1585~1604年)
1588年5月、スペイン王フェリペ2世が、オランダの独立を支持するイギリスに向けて派遣した約130隻の大艦隊のことを無敵艦隊と呼ぶ。7月から8月にかけて行われた無敵艦隊とイギリス海軍との決戦は、機動力に富んだイギリス海軍の大勝利に終わり、スペインに帰国した戦艦は半数以下だった。そのため制海権はイギリスの手に渡り、スペインの国際貿易・植民地経営は大打撃を受けた。(ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした。)

②18世紀の「スペイン継承戦争」(1701~1714年)
スペイン王位継承問題を起因として、イギリス、フランスの対抗を主軸として行われた国際戦争。スペイン王カルロス2世は病弱で嗣子がなく、フランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップを相続者に定めた。フランスによるスペイン領アメリカ植民地貿易独占を恐れたイギリスは、オランダ及び継承権を持つオーストリアと同盟しフランスに宣戦した。同盟側にはプロシア、ポルトガルが、フランス側にはバイエルンが参加。同盟側が一貫して優位に立った。この戦争の結果、フランスの勢力は事実上の後退、一方イギリスは海上の覇権を取り、海洋植民地国家としての地位を確立した。

③フランスと死闘を繰り返した「ナポレオン戦争」(1793~1815年)
フランス革命後の各国の干渉に対して、フランスの祖国防衛戦争から始まり、ナポレオンの軍隊がヨーロッパを席巻した戦争。ナポレオン率いるフランスとその同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦った。戦争は革命防衛戦争から大陸制圧の侵略戦争へと転換したが、後半は各国のナショナリズムが成長し、反ナポレオン体制の戦いとなった。イギリスはケープ植民地をはじめとする海外領土を獲得した。さらに、フランス、スペイン、オランダ等の海軍を打倒したことでイギリス海軍が世界の海における制海権を確立し、大陸封鎖令とそれに対抗する海上封鎖というフランスとの経済戦争にも勝利することで、植民地貿易における支配力を強め、イギリス産業が興隆した。これにより、19世紀におけるイギリスの覇権国としての地位は揺るぎないものとなった。

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これらはいずれも各々がいわば「ホップ・ステップ・ジャンプ」として例えられる「三段跳び」のように、大英帝国の興隆の重要な節目をなしたものであった。

超大国としてのイギリスは200年くらいかけて徐々に盛り上がり、同様に200年近くかけてゆっくりと衰退のプロセスを辿っていった。その盛衰はきわめて息の長いプロセスであったといえる。

衰退の原因

①軍事費の増大
大英帝国衰退の起源をどこに求めるかは難しい問題である。
私は、20世紀の2つの世界大戦によって引き起こされた軍事費の増大こそが大英帝国衰亡の明示的ないし最終的要因になったのではないかと考えている。

実際、1914年から1945年までの30年余りの間に、イギリスが支出した軍事支出の総額は、408億4500万ポンドに上るものであった。同じ期間の国民所得総額は1584億9900ポンドであったから、この30年余りの間に、イギリスは平均して実に国民所得の25%を軍事支出に費やしたことになる。(各々の戦争において出費の最も高かった、1917年では67%・1944年は61.2%もの割合で、戦争に対して支出を行っていた。)

因みにイギリス同様、この二つの大戦を戦いぬいたはずのドイツのこの全期間における軍事総支出割合は、この4分の1程度だったと推測される。

この多大な出費は、イギリス衰退の最終的要因を何か別のものに見出そうとする余地を残さないほどにすさまじい負担であったといえる。

ポール・ケネディが、その著作である『大国の興亡』 の中で主張したように、軍事費の過重な負担が必ず衰退をもたらすものかどうか、議論の余地はあるにしても、歴史上これほど長期にわたって、このように多大なる軍事支出を、すでに成熟しきった国家が背負い続けることは、その国家が活力を保ちえるためのプラスの要素になったのかどうか? という疑問が生じる。

そうした出費によって戦後何が得られたのかを考えた場合、とりわけ第二次世界大戦については「戦勝国」という地位以外にほとんど何も得たものはなかった。(第二次世界大戦を契機として、海外植民地は徐々に独立の色合いを強くしていく。)

政治学者・中西輝政氏は「バトル・オブ・ブリテン」の代償について次のように述べている。

ウィンストン・チャーチルの熱弁によって奮い立たされたイギリス人が、イギリス本土防衛のための戦い、『バトル・オブ・ブリテン』を戦っていた1940年夏、イギリス大蔵省とイングランド銀行は大英帝国の破産を確認する報告書を閣議に提出していた。
第二次世界大戦によってイギリスは1914年以前に蓄積し、1918年以後になんとか再建を果たした海外資産の大半を永久に失った。たとえば中東の石油利権など、英国の在外資産のもっとも重要な部分を第二次世界大戦中、アメリカ企業が二束三文で買い叩いていった光景こそが、『バトル・オブ・ブリテン』から『ノルマンディー27』へ至るあの期間の、『真の世界史』の光景であったといえるかもしれない。
......戦後、イギリスはその輸出を戦前の水準の75%増加させる必要があることもすでに戦時中から知られていた。ノルマンディー上陸作戦の成功に沸いていた1944年6月のロンドンの一角で、イギリス商務省の係官が一枚の報告書を作成していた。そこには、戦後イギリスはほとんど輸出の増加を見込む事が出来ず、またイギリス産業の競争力は戦後さらに一段と低下する趨勢が避けられないものとして、はっきり指摘されていた。

軍事費の増加が必ず衰退を招くとは限らない。

しかし、危機が差し迫った展開の中で、国家の指導者や国民が常にギリギリの選択に立たされる時、目の前の状況を打開する為には、事後の結果を顧みずに選択を行わなければならない状況は存在する。

イギリスの例が顕著であるが、多くの大国が衰退のプロセスを辿りつつあるとき、その時代を生きた知識人の多くがすでに早くから、「衰退」の進行を指摘して、後世からみて適切な政策や、指針を提起していた場合が少なくない。それにもかかわらず、現実には解っていながらどうすることもできないまま、坂道を転げ落ちていくように衰退していくというパターンが珍しくないといえる。

②改革の時期を逃してしまったこと

二番目に考えたいのは、「改革の時期を逃してしまったこと」である。

中西氏によれば、「大英帝国とは(小さな島国が海外の広大な植民地を支配する手段としての)威信という精神的なシステムであった」と規定したうえで大英帝国が改革すべき時期を逃してしまった事を述べている。

そのシステムを支えたのは「イギリス自身の力」であり、その中でも、①優越した海軍力、②広大な植民地の領有、③産業革命と商業立国の伝統による経済力、それに加えて、19世紀中葉における他の欧州列強の際立った弱さだとしている。その事を踏まえたうえで、中西氏は、大英帝国に現れた衰退の兆しを立て直すことができたとすれば、1890年から1910年までの約20年間が決定的に重要だったとしている。次の通りである。

大英帝国の『立て直し』にとって決定的に重要だと思われた時期は、1890年から1910年までのおよそ20年間であったように思われる。
とりわけ世紀の変わり目をまたぐ数年間は、長引く不況やボーア戦争の悲惨な失敗、深刻な社会問題の浮上などによって各方面で改革の必要性が深く認識され、活発な『改革』論議が高まった時期であった。特に、ボーア戦争の初期、戦場からの悲報によるショックは、一瞬にしてイギリス人の心に『改革マインド』を根付かせ、大英帝国は『改革論の季節』に入ることになった。
しかし大英帝国はその時期を、実行を伴わない『改革論の季節』として過ごしてしまった。大英帝国に対する潜在的な「覇権挑戦国」である新興国家ドイツに対してどのように対処すべきなのか(ドイツに対抗するに足る陸軍を建設するべきなのか、勢力均衡外交によってドイツを封じ込めるべきなのか、それとも取り込むべきなのか)という外交・軍事的問題に加えて、自由貿易か保護主義に転ずるべきか、改革の実行のために財政赤字の増加を容認するか緊縮財政を実行するか否か、財源としての(大土地所有者への)増税を認めるべきか、といった国内の改革論議が熱を帯びたにもかかわらず有効な手立てを打たなかった。つまり、大英帝国は舵取りを誤り、また、帝国を支えてきた理念や制度に妨げられて改革は実を結ばなかった。

このことは、1873年にロンドン『エコノミスト』の有名な政治評論家である、ウォルター・バジョットが述べた次の言葉に集約することができる。

大国に特有の危険は、自らがつくりだした偉大な制度や価値観を修正できない点にある。

このように、大英帝国の衰退の一因には、改革に対して議論が起きていたにも関わらず、過去の成功に囚われて、有効な手立てを打てなかった......という点も関係していると、私は考える。

今回のまとめ

大英帝国が衰退した直接の理由は“軍事費の増大”であったということができる。しかし、崩壊の近因は軍事費の増大や、対外債務の増加になるとしても、それに至るまでの外交の失敗や、政治家の失策、環境原因というものが間接的な要因として存在することが推測される。

それに加え、大英帝国の衰退を考慮すると、誰かの「責任」や、何かの「過ち」に帰する事が酷に思われるほどに、歴史の不可避な流れというものが存在するという事もわかる。つまり、「衰退」の兆候がわかっていながら、それに逆らうことができないというジレンマである。また、過去の成功や基本理念に固執するあまり、改革をすべき時期に有効な手立てを打つことをしなかった点も衰退に大きくかかわっているといえる。

次回は、文明が消失してしまった例として、グリーンランドのバイキング又はイースター島の例を取り上げたい。

(taro)

<参考文献>
中西輝政「大英帝国衰亡史」PHP研究所,1997年
湯浅赳男「大英帝国の興亡と日本の命運」日本文芸社,1998年
長島伸一「大英帝国 最盛期イギリスの社会史」講談社現代新書,1989年

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