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古代史の超人、聖徳太子と兵庫

今年、没後1400年の節目を迎えた聖徳太子です。有名な「「和をもっとうとしとす」の言葉を残した古代史の超人です。そのゆかりの地が兵庫県内にも数多くあり、お札で親しんだ世代の播州人3号が紹介します。

最近の教科書では「厩戸王うまやとおう」などと記すこともあるようですが、「太子」の方がしっくりします。
その「太子」が町名になっています。
姫路市に隣接する「太子町」です。

「お太子さん」と親しまれる町のシンボルがこちらです。

斑鳩寺いかるがでら(太子町鵤)
地域に根付く太子信仰

 真っ赤な衣装に黄色の帯。ひげをたくわえた口元に柔和な笑みが浮かぶ。太子町のゆるキャラ「たいし君」だ。モデルは言わずと知れた聖徳太子。斑鳩寺の創建者は、地域のシンボルとして今なお愛され続ける。
 日本書紀によると、推古14(606)年、聖徳太子が35歳のとき、推古天皇に仏教の講話をし、そのほうびとして贈られた播磨国の水田百町を、奈良の法隆寺に寄進した。太子は「鵤荘いかるがのしょう」と名付け、一帯のほぼ中央に伽藍がらんを建てたのが斑鳩寺の始まりとされる。
 「お太子さん」の名で親しまれる寺には、仁王門をくぐって左手に、太子像を本尊とする「聖徳殿でん」がある。前殿、中殿、奥殿で構成。法隆寺の夢殿を模した八角円堂の奥殿に、自らの髪を切って植えたとされる「植髪うえがみの太子」がまつられる。
 肖像画が何度もお札に登場するなど、聖徳太子の人気は根強い。住職(60)は「『和』の精神を掲げた平和主義者であり、日本の行くべき道を指し示された人」と、その理由を説く。戦乱に明け暮れた時代にあってこそ、その教えは輝きを増した。
 一方、その威光は、時に地域を守った。武士の手が伸びようとするたび、法隆寺は幕府に訴え出て、「太子ゆかりの地」との理由で外圧は排除された。太子町立歴史資料館の学芸員は「精神的支柱として太子信仰を植え付け、広めることで、法隆寺が荘民をまとめ、外部の力から守ったのだろう」と話す。太子の命日に当たる2月22日の「春会式はるえしき」などは郷土の年中行事とも結びつき、脈々と続く。
 「お太子さん」。その響きに、はるかな歳月をくぐり抜けてきた生命力とともに、傍らにあるようなぬくもりを今も感じることができる。

(2012年4月5日付朝刊より)

宇宙飛行士の野口聡一さんは3歳から小学5年まで太子町で過ごしました。
その縁もあって2010年には宇宙と町の子どもたちとのこんな交信が実現しています。質問内容にご注目。

太子町の斑鳩小
400キロ上空の野口さんと交信
声「宇宙に届いたよ」

 国際宇宙ステーション(ISS)に滞在中の宇宙飛行士、野口聡一さん(44)が9日、小学5年まで在籍した兵庫県太子町、斑鳩小学校の6年生15人と無線で交信した。約400キロ上空の宇宙から野口さんの声が届くと、児童らは興奮した様子だった。
 ISSの宇宙飛行士と児童がアマチュア無線で交信する米航空宇宙局(NASA)の教育プログラムの一環。野口さんの希望で同校との交信が実現した。
 ISSが日本上空を通過する約10分間に15人が質問した。6年生の男児(12)は、野口さんがISSで迎えた今年の正月に「和」と書き初めしたことを取り上げ、「聖徳太子の教えと関係がありますか」と質問した。
 太子町には聖徳太子ゆかりの斑鳩寺があるため、野口さんは「いい質問ですね。太子町にいたことと関係があるかもしれません。好きな漢字の一つです」と答えた。
 全員で「がんばってください」と声援を送ると、野口さんは「宇宙まで届きました。また太子町を訪れます」と約束。子どもたちは「宇宙に行っても故郷のことを考えてくれて、うれしい」と話した。

(2010年3月10日付朝刊より)

宇宙飛行士にも聖徳太子が影響を与えていたかもしれません。
太子町には太子ゆかりの行事も受け継がれています。

来月 斑鳩寺「勝軍会」
伝統行事10年ぶりに
狩衣の子らリハーサル

 子どもの成長を願う伝統行事として、聖徳太子ゆかりの斑鳩(いかるが)寺(太子町鵤いかるが)に伝わる「勝軍会しょうぐんえ」が2月12日、10年ぶりに開かれる。21日には、聖徳太子の子どもとなる「御頭人ごとうにん」役を務める男児(5)宅に親族や自治会、同寺関係者ら約30人が集まり、リハーサルに取り組んだ。
 勝軍会は、仏法を信じる聖徳太子が物部氏と戦った際、四天王像を刻んで勝利した故事に由来するという。寺の周辺地域から御頭人に選んだ子ども4人を、四天王または太子の四童子とし、健やかな成長や地域の繁栄を祈願してきた。
 約800年前から続くとされるが、近年は御頭人の希望者が少なく、2002年を最後に開かれていなかった。今回は男児の父(36)が「祖父、父、私と続いたので、4代目もお願いしよう」と手を挙げた。
 この日のリハーサルでは、儀式の進め方や、本番で参加者に振る舞う酒のつぎ方など細かな作法を確認。従者の「酌人しゃくにん」や「太刀たち持ち」役を務める地元の小学生5人も狩衣かりぎぬ装束で加わり、大谷康文住職から丁寧な指導を受けた。大谷住職は「子どもの立派な成長を願う行事なので、しっかり務めたい」と話していた。

(2012年1月22日付朝刊より)

雨乞いの儀式とともに続いていた「法伝哉ほうでんや」も太子と関係のある行事として過去の記事で紹介されていました。
没後1400年を記念し、日本酒も登場しています。

特別純米酒「斑鳩」が誕生
聖徳太子没後1400年記念
太子町企画 醸造は本田商店

 聖徳太子が亡くなったとされる622年から今年で1400年。太子町が展開する記念事業の一環で、オリジナルラベルの日本酒「斑鳩いかるが」が誕生した。720ミリリットル瓶の価格はちょうど1400円(税込み)。町内の酒販店と飲食店でのみ提供される。
 地域のシンボルの斑鳩寺(同町いかるが)にちなんで名付けられた。現在の太子町域は大半が、太子が建立した法隆寺(奈良県斑鳩町)の荘園だった歴史があり、斑鳩寺はその管理のため平安時代までには成立したとされる。
 酒の醸造元は太子町南部に近い本田商店(姫路市網干区)。ベースは代表銘柄「龍力」の特別純米酒で、県が開発した酒米「兵庫錦」を使っている。2022年の1年間限定で販売される。
 企画した同町産業経済課は「日本酒は『和酒』とも呼ばれ、『和のまち太子』のイメージにもぴったり。ぜひ味わってみて」とPRしている。

(2022年1月7日付朝刊より)

太子町以外にも兵庫には聖徳太子信仰で有名な拠点があります。

鶴林寺かくりんじ
加古川市加古川町北在家
涅槃図に1000年前思う

 仁王門をくぐると、石畳の向こうに重厚な本堂(国宝、室町時代)がたたずむ。その端正な姿にしばし見入る。さらに進むと、右手に太子堂(国宝、平安時代)が現れる。特徴的な造りは、法隆寺夢殿を連想させずにはいられない。鶴林寺が「播磨の法隆寺」と呼ばれるゆえんだろうか。
 伝承によると、6世紀末、高句麗こうくりの僧恵便えべんが播磨にやってきた。恵便に一目会おうと、聖徳太子は播磨を訪ね、「木の丸殿」で教えを請うた。これを記念し、太子は、側近の秦河勝はたのかわかつに四天王寺聖霊院を建設させた。これが鶴林寺の始まりとされる。「木の丸殿」跡と伝わる遺構は、塔頭たっちゅうの一角に残っている。
 秦河勝は後年、西播磨の赤穂坂越で生涯を終えたとされる。播磨と太子は、何か特別な関係性をうかがわせる。伝承は本当にあった話と考えたくなる。
 宝物館に入り、仏教美術品の数々に目を見張った。日本を代表する白鳳仏の聖観音立像(国重文)は、「拈華微笑ねんげみしょう」の穏やかな表情が魅力的だ。恵便座像(県文化財、平安時代)や聖徳太子像(市文化財、12世紀後半)は、生前の面影をしのばせるようなリアルな像。今月15日まで、太子堂涅槃図ねはんず(国重文)の復元模写も展示されている。
 涅槃図は、住職(71)が30年以上前に見つけた。太子堂内に古い仏画があるという話は、寺に古くから伝わっていたが、すすで真っ黒に変色し、住職が赤外線写真で詳しく調べるまで、だれも気付かなかったという。
 昨年、東京芸大の院生の手で復元模写され、国内でも最古級とされる涅槃図の全容が分かった。
 白地に赤、青、緑が浮かぶ鮮やかな彩色。万人が悲しむ釈迦しゃかの入滅を描きながら、図の印象は明るい。「古人はどんな思いを込めたのだろう」と考えるうちに、約千年前にタイムスリップしたような気持ちになった。

(2009年3月9日付朝刊より)

神戸にも太子と関係する像がありました。
けれど今は主が「不在」です。

聖徳太子 帰らず 神戸・兵庫、湊川公園
大震災で落馬… 修復不能ですでに処分 神戸市 「財政難で復旧無理」

 神戸・湊川公園の一角にあった、幼い聖徳太子が馬にまたがるブロンズ像。阪神・淡路大震災で、肝心の太子が落馬した。修復不能な破損で、震災から三年を経ても、太子が戻る気配はない。神戸市が把握している野外彫刻物のうち、復旧を果たしていない銅像はこの像だけ。寒空を見上げる馬の背は、寒々しい。
 駆ける馬に乗った太子像があったのは、兵庫区の湊川公園北東の隅。台座を含めた大きさは、高さ3・2メートル、幅1・3メートル、長さ3・9メートルで、作者は不詳。兵庫区役所が発行するガイドブック「由緒あるまち兵庫」によると、湊川付近一帯は法隆寺の領地で、太子が領民に善政をしいていたことから、「1921(大正10)年に区内の船大工町に住んでいた岡田氏が顕彰のためにこの騎馬像を建てた」とある。が、「詳しい事情は分からない」と区役所はいう。
 震災では、像の太子部分だけが落下した。胴の部分で真っ二つに割れた上、腕も取れるなどばらばらの状態となった。震災直後、市文化振興課が回収し、専門家に見てもらったが、修復は不可能で、結局処分するしかなかった。
 同課によると、市が把握している野外彫刻作品は358点。震災では48点が破損などの被害を受けた。このうち激しく壊れた抽象モニュメントなど6点が修復不可能と判断された。しかし、うち2点は作者が新たな作品をつくったり地域住民が制作し直したりしており、残るのは4点。太子像はこの中での唯一の銅像で、市の担当者は「厳しい財政事情の中では修復は難しい。馬だけでは哀れな感じもするが、かといって馬の方も撤去するわけにもいかないし…」と悩んでいる。

(1998年1月23日夕刊より)

その後の取材で、太子像の一部を神戸市が保管していることが分かりましたが、修復されることはなく、今も主なき馬を湊川公園で見ることができます。

<播州人3号>
1997年入社。聖徳太子といえば、5千円と1万円紙幣が思い浮かびます。調べてみると、太子がお札に登場するのは戦前、戦後の計5回。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によってお札にも軍国主義的な色彩が否定される中、聖徳太子だけは十七条憲法を作った平和主義者であるという理由で、紙幣の顔として残ることになったようです。

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