母と戦争
2016年、神戸ポートターミナル(川崎重工120周年展)で戦時中の戦闘機「飛燕」が展示されると聞き、今は亡き母を連れて行きました。
当時の主力戦闘機ゼロ戦は空冷エンジンで空気抵抗が大きかったため、流線形で速度が速く航続距離の長い戦闘機(飛燕)を作るためにドイツから液冷(油冷)エンジン技術が導入されました。
エンジンは川崎航空機の明石工場で作られ、岐阜の各務原工場で飛燕に搭載されました。
母は昭和4年(1929年)生まれ。
終戦の年は16歳なので、戦争の記憶を語れる最後の年齢だったかもしれません。
終戦記念日になると、母から聞いた戦争の話を思い出します。
『社(やしろ)高等女学校の時に、学徒動員で川崎航空機の明石工場の寮に入った。
寮で朝1時間だけ勉強して「歩調とれ!」の号令でバスに乗って工場門に入る。
そこから、気筒部行きのバスに乗り込む。
気筒部は戦闘機の飛燕のエンジン部分を組み立てるところで、そこの検査部門に入れられた。
野田高女(※)から来たという女学生さんに検査の仕方を教えてもらう。
組み立てられたエンジンにホースで水を入れる。
ピューと水芸の様に水が噴き出す。
水の出ないエンジンは10台に1台もない。
心の中で「こんなことで飛行機ができるんやろか」と思いながらも、黙々と不合格として処理する。
仕事中は、長い日本刀を腰から下げた将校さんがいるので、私語もできない。
不合格のエンジンは、土山の東亜金属(今の東洋機械金属)に送り返す。
ある日、空襲が来るらしいということで、気筒部は東洋紡績の二見工場へ移ることになり、トラックに乗せられて移動した。
その紡績工場では、軍需工場として引き渡すための整理作業が行われていた。
食堂が垣根で隠されており、そっと中を覗いてみると、真っ白な大量の白米が炊かれていた。
おそらく、食堂に置いていたお米を、最後に従業員が食べたのだろう。
その後、明石の川崎航空機に空襲があり、二見の工場も危険なので防空頭巾をかぶって山の中へ逃げ込んだ。
目と耳を両手でふさいで、爆弾の落ちる音と爆発音を聞いていたが、そっと目を開けて明石の方向を見た。
大量の花火を見ている様で、明石の空が真っ赤になっていた。
空襲のあとは、電線に人肉が引っかかっていたりしていたらしい。
野田の女学生さんは逃げられたのか心配だった。
その後は西脇の野村の織物工場に移った。
西脇や社(やしろ)のような田舎でも空襲警報はよくあった。
空襲警報があった時、佐保神社の裏山から崖を転げ落ちて逃げたこともあった。
田んぼの中で機銃掃射を受けて亡くなった人もいた。
ウーという警報が鳴ると、家じゅうの電気を消して、真っ暗な中でご飯を食べた。
今、よく生きていると思う。今思い出しても、生きた心地がしなかった。』
(※)今の神戸野田高等学校。川崎航空機明石工場空襲は昭和20年1月19日、犠牲者263名、県外からも来ていた学徒勤労報国隊16名、女子挺身隊8名も犠牲になりました。野田高等女学校の犠牲者もあったようです。