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第19回 神戸・新開地「大阪の天満天神繁昌亭から地元の喜楽館へ」

繁昌亭の舞台に立つ

2023年9月25日に、戦後60年ぶりに復活を遂げた上方落語の寄席「天満天神繁昌亭」の舞台に立つことができた。
もちろん落語を披露したわけではなく、毎月25日にテーマを決めて開催されている「天神寄席」9月席で、3人で話す鼎談の場に参加したのである。この日のテーマは「極楽隠居と定年地獄」。
2017年に出版した拙著『定年後』(中公新書)がベストセラーになったので声がかかったのだろう。

2023年9月25日(月)の天神寄席

子どもの頃に地元の新開地にあった神戸松竹座に通った身としては、ある種あこがれの演芸の舞台に初めて上がった。普段は人前に出るのに緊張することはないが、ワクワクする気持ちとともに、お客さんにどのように受け取られるか分からないのでストレスも感じていた。
今までは客席からしか見ない落語家さんにも楽屋で挨拶もした。

当日は、100人程度のお客さんが集まった。
私もSNSにアップしたり、個別に呼びかけた結果、学生時代の同級生、講演や研究会で知り合いになった方々、勤めていた日本生命の先輩・同期・後輩など、多くの人たちに来場いただいた。

出演した夜席の番組は、チラシにも書かれているが下記の通りで、仲入後の鼎談に登場した。
この日の演目は隠居や定年についての噺がラインナップされている。

天神寄席9月席 極楽隠居と定年地獄
笑福亭大智「化物使い」
笑福亭たま「マイセルブス」
桂文華「笠碁」
桂三風「ああ定年」
~仲入~
鼎談「定年後の過ごし方」
楠木新(ビジネス評論家)・高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長)・桂春若
月亭文都「茶の湯」

表の出番表にも名前が出たのを見て嬉しくなった。鼎談は落語ではなく色物なので赤字で書かれている

鼎談「定年後の過ごし方」

舞台に立って一番初めに感じたのは、まず客席との距離が近いことだった。お客さんの顔がすぐ目の前にある感じで表情の動きがよく見える。
これなら寝ていたらすぐにわかる。

鼎談のメンバーは、大阪天満宮文化研究所所長の高島幸次先生、桂春若師匠と私。
高島先生の司会で、先ずは仲入前に演じられた四席の落語について簡単な感想を聞かれた。その後は、高島先生が『定年後』(中公新書)を読んで気になった点について、およそ30分にわたって3人で話し合った。

いくつかの論点が取り上げられたが、一番興味を惹いたのが、落語家と会社員の定年に対する考え方の違いだった。

高島先生が春若師匠に「落語家さんには定年はありませんね」と聞くと、そのとき71歳だった春若師匠は「同級生からもお前は定年がなくていいなぁと、最近よく言われる。落語家は死ぬまでやれる」と話した。
そして「落語家は55歳からと昔は言われていた。志ん生師匠も圓生師匠も売れたのは55歳からです」と発言。

そのやりとりを受けて、私は「会社の中では、50代半ばになると社員はもうロートルだと思っている。会社員と著述業との二足のわらじを履いていた時に、同じ50代でもフリーライターやカメラマンが若々しく見えることに驚いた」と述べた。

「落語家さんでの最年長はどなたですか?」と高島先生が春若師匠に尋ねる。
「福団治師匠でしょう。82歳ですが、最近も忙しく高座を務められている」との答えだ。

ここでは落語家のパーフォーマンスと年齢との関係が一つのポイントであったが、桂米朝は「落語家は(たいへんに個人差のあるものではあるが)、45、6から65、6までが一番良い時であると思っています。さらにしぼると50から65、6歳まで」と述べている(『上方落語の四天王』戸田学 p3)。

やはり会社員のピークとは若干ずれがある。

高島先生からは「会社員だった楠木さんが、なぜ定年前後の人たちの取材を始めたのか」という質問があった。
生命保険会社で働いていたが、40代後半に「このまま働いていいのか?」と思い迷って会社を休職した。
それを契機に、50歳から会社員が「いい顔」になるための機会や情報を提供するという「芸」で身を立てることに決めた。
「楠木 新(クスノキ アラタ)」という芸名で執筆や講演に取り組んだ。「楠木」は、通った地元の中学校の名前から、「新」は、生まれ育った神戸新開地からとった。
定年後に就いた大学教員の時は芸名で通した。
などなどを順に話した。

春若師匠からは、「当時は、神戸松竹座はガラガラでしたね」という反応があったので、楠木は「私の子どもの頃は勢いがあったのですけどね」と応じた。

高島先生は、「落語家も皆さん芸名ですね。日本史の研究者から言えば、昔は名前を使い分けることは当然のようにやっていた。幼名と大人になってからの名前は違うこともよくあった。人生の中でいくつもの自分を生きることができたが、明治3年に税金をとるために唯一の名前に統一した」と教えてくれた。

このほかにも定年後の趣味の持ち方やシニアが若い人と付き合う方法などの話題も出た。
「落語と定年」というテーマが、寄席のお客さんにどう受け入れられるか不安もあった。しかし実際には、高島先生、春若師匠のおかげで会場には笑いが絶えず、お客さんが耳を傾けている雰囲気が伝わってきた。
そうなると私もリラックスして話すことができたのである。

NHKラジオに出演

この天神寄席『極楽隠居と定年地獄』の様子は、4日後の29日にラジオ番組「Nラジ」で、特集『落語でみる定年後の今と昔』というテーマで放送された。
18:30から20分余りは私がゲストで話した。
以前に働き方のテーマで出演した時のディレクターが大阪まで取材に来てくれたのである。

ラジオでは、「てんてけてんてん♪」というお囃子の音を流しながら、当日の落語の演目を各々短時間流したうえで、気鋭の落語家、笑福亭たまさんの「マイセルブス」という新作落語が話の中心になった。

「ガラガラ! 教えたろか! 窓からホームレス入ってきたがな。ちょっと警察呼びますよ、なんですか。お前がな心配やゆうさかいに教えに来ったんやないかい。わしはな、40歳のお前らや。20年後のお前や。え! ぼく40歳でホームレスになるんですか?! へ? なんでですか? 30歳でIT企業の社長やと聞いていたのに!」
等の「マイセルブス」の一部、約30秒が放送で流れた。

実は、高島先生が、私に対して「天神寄席で披露してほしい演目はありますか?」と尋ねてくれた。私が希望したのはこの「マイセルブス」だった。

20歳のニートの自分がこれからどうしようかと迷っていると、30歳の自分が現れて「心配するな、お前の10年後は、IT企業の社長になっている」と将来の自分が順次アドバイスをくれる物語だ。

介護状態になった80歳の臨終のときには、40歳のホームレス、50歳のロックミュージシャン、60歳のマフィアのボスなどの過去の自分たちが一堂に会してにぎやかに語り合う。

「長くなった寿命に対応するには、家族、地域の仲間や学生時代の友人だけでなく、過去の自分とも肩を組みながら進むことが大切になってくる」など。定年後は自分自身を大切にすることと、ノスタルジーがポイントだと述べたのである。
ほぼ20分間、アナウンサーの質問に答えながら気持ちよく話すことができた。

講演をもっと面白くしたい

の繁昌亭の舞台に立った時に、客席で笑ってもらえるという快感を覚えてしまった。
ラジオについても周囲から好反響が返ってきた。

大学生の就活、会社内での働き方、定年前後の過ごし方、などをテーマに月に1,2回程度、企業や地方公共団体、大学から講演を引き受けることがある。
元々、堅い雰囲気が苦手な私は、講演やセミナーでは毎回面白くしようと意識している。しかし頭の先でピコピコ話しているだけでは聞き手の細胞にまでは届かない。頭の中の理解だけにとどまってしまう。

せっかく人前に立って話せるチャンスがあるのだから、この機会を活かして、話すレベルをもっと高めたいと考えた。
現在の講演やセミナーに笑いの要素を入れるか、もう一歩進んで独自の漫談をやれないだろうかと検討を始めた。ただYouTube で検索しても参考になる漫談はアップされていない。

第15回でもふれたが、神戸松竹座で活躍した西条凡児さんの音源を探すために大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」にも出向いた。
しかし音源は保存されておらず、漫談家として2000年度に上方演芸殿堂入りを果たしているにもかかわらず、資料は残っていなかった。

また落語を参考にできないかと作家養成スクールの「心斎橋大学」が新たに開講する「落語作家養成講座」の説明会にも参加した。
一時は通うつもりになったが、小佐田定雄の『上方らくごの舞台裏 』や『新作らくごの舞台裏 』(ともに、ちくま新書)を読むと、今年70歳になる私には基本から学ぶ持ち時間は残されていないと判断して見送りにした。

神保町の漫才劇場や東京浅草のリトルシアター、大阪心斎橋の楽屋aなどで、できるだけ漫談の舞台を見るようにしていた。

「私が落語家になったワケ」の連載

そういう課題意識があったので、このnoteの第15回と第16回の神戸・新開地「喜楽館の漫談とR-1へエントリー」(上)(下)で詳細に書いたように、喜楽館での演芸大会に漫談で出たり、その勢いでR-1グランプリの一回戦にもエントリーしたりした。

R-1グランプリであえなく敗退した時に、自分が演者になるのは無理だと痛感した。やはりプロやプロを本気で目指す人にはとても敵わないのである。それでも吉本興業のオープンスクールや説明会にも参加したが演者としての道は見えなかった。

丁度その頃に、大変光栄なことに神戸新開地・喜楽館からアンバサダーを任命された。
私にとっては生まれて育った地元であるし、当時は筋向いにあった神戸松竹座で演芸を楽しんだ立場としては願ってもないことだった。

まずは私の役割は、喜楽館を広く皆さんにお知らせする宣伝マン。具体的には知人などに呼び掛けて集客を高めることだろう。

それは当然として、落語の定席である喜楽館に何かお役に立てることはできないか検討した。前から気になっていたのは、演者はどうして落語家の道を選んだのかということだった。
私の関心は落語の噺自体よりもその人の生き方、キャリアの流れに関心がある。

落語家になった理由は、落語のマクラでは時々取り上げられる。しかしあまり突っ込んだ内容にはならない。
けれどもそれについては、私と同様に知りたい人は一定数いるはずだ。落語家本人のことは名鑑などで確認するが、その人が落語家になった背景を知っていれば人となりがより深く分かるだろう。

同時に私は会社員から異なる仕事に転身した人たちをインタビューして修士論文を書いたので、その経験も活かせるかもしれないと考えた。
落語家さんや喜楽館のPRになって、従来の落語好きの人以外にも顧客を広げることにつなげていきたい。これも地元への一つの還元になるのではないか。

そこで「私が落語家になったワケ」という連載を喜楽館のHPで始めることを提案して承諾してもらった。一旦演者としての立場を検討したからこそ作成できた企画案だった。

5月には、第1回目として、小学校の先生から落語家に転身した桂雪鹿さんのインタビューをアップすることができた。        

まだまだ手探りであるが、落語家になるまでの経緯の話を聞くのは興味深い。若い人と話すと私自身が元気になるという実感もある。これからも続けていきたいと考えている。                          

             



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