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第21回 神戸・新開地「淀川長治を生んだ映画の街」

チャップリンとの出会い

新開地の映画館へ連日通い続けていたという淀川長治さん(1909年〜1998年。以下敬称略)の話は地元でもよく聞いていた。

当時、毎週日曜午後9時からの『日曜洋画劇場』で、「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、映画解説をするテレビ画面の淀川の姿は印象的だった。
ビデオテープやDVD、インターネットでの配信のない時代は、映画は映画館のスクリーンで観なければならなかった。数多くの映画館が立ち並ぶ新開地近くに住んでいた私たちは、比較的手軽に映画にアクセスできた。しかし映画に出会うのは「日曜洋画劇場」だけという地方出身の映画好きな友人もいて、淀川長治を驚くほど高く評価していた。

彼のもっとも有名なエピソードの一つは、昭和11年(1936)長治が27歳の時に神戸港に来たチャールズ・チャップリンと船内において二人で話したことだろう。チャップリンは当時47歳だった

私が子どもの頃に、「チャップリンが、神戸港に到着した時に、中突堤には多くの見物客が出迎えた。チャップリンは、群集の一番前にいた淀川青年だけを抱きしめた」という話を当時の大人たちから聞いて「すごいなぁ」と感嘆していた。
映画が好きで好きでたまらないことが一目でチャップリンにも伝わったのだという逸話だった。

しかし淀川の書いた『「生きる」という贅沢―私の履歴書』(日本経済新聞出版社)を読むと、映画の宣伝会社に勤めていた淀川が『チャップリンと新妻ポーレット・ゴダードが、新婚旅行で極秘に神戸港へ船で立ち寄る』というニュースをキャッチして、その船内に許可なしに入ってアポなしの突撃取材を敢行したというのが真相のようだ。

当初甲板で、船長はチャップリンと会うのは「3分間!だけだ」と念を押した。ところが淀川は「あなたの映画が本当に好きなんだ」ということを示すために、彼の短編映画時代の映画名を立て続けに伝えた。
さらに本当に観ていることを証明するため、映画『番頭』のチャップリンの演技をパントマイムで再現した。

それがチャップリンのハートをとらえたのだろう。
「ねぇ、君!中に入って話をしよう!」と船室に招待してくれて、42分間2人きりで話をしたそうだ。淀川は、その後のインタビューで、死んでも忘れられない体験で、映画の神さんが最高のプレゼントをくれたと語っている。

1998年刊。日経新聞朝刊で大きな反響を呼んだ「私の履歴書」の単行本化。映画史と重なる88年の個人史を思い出すままユーモラスに、時に時代や社会への皮肉を込めて語る異色の自伝。貧乏覚悟、家庭も持たぬ、「生涯を映画とともに」と誓い、生きてきた、映画人としての人生。

これは私が地元の大人たちから聞いていた話とは全然違っている。
しかしどちらのエピソードも淀川長治の映画愛がポイントになっていて、いずれも「好きなことは伝わる」というチャーミングな話だ。

淀川長治の映画人生

淀川は1909年4月10日、神戸市兵庫区で芸者置屋の跡取り息子として生まれた。
淀川長治の生家は、柳原蛭子神社(神戸市兵庫区西柳原町)のすぐそばにあり、一家そろっての映画ファンだった。

柳原蛭子神社の神楽殿から御社殿をみる。
この神社は1月のえべっさんでは大賑わい。新開地、福原近辺の商店主なら必ず参る

「彼は映画の申し子だった」と称されるが、彼の母親は兵庫区新開地の映画館で映画(当時は「活動写真」)を見ていた時に突然産気づいたという。

当時、新開地は聚楽館しゅうらくかんのほか、千代之座、キネマ倶楽部、相生座、栄館など活動写真館や芝居小屋が軒を連ねる大繁華街だった。

1970年頃、私の子ども時代には聚楽館だけはそのままの名称で残っていた。

聚楽館(兵庫県HPより)。大正2年8月(1913年)撮影。淀川が通い始めた時の建物

淀川はその聚楽館を「文化の噴水」「日本の誇り」とまで称したが、残念ながら1978年に閉館して65年の歴史を終えた。

多聞通と新開地商店街の角の一等地にあった聚楽館。現在は大型パチンコ店になっている

淀川長治は、米国や日本の映画会社の宣伝部に在籍して、映画雑誌の編集長も経験、テレビの『日曜映画劇場』の解説にも取り組む。
その後はフリーになって各方面に活動の場を広げた。彼は立場を何度も変えているが、映画一筋に生きた人生だと言えるだろう。

驚くべきことに、彼は1966年から約32年間、映画の魅力を情感豊かにお茶の間へ伝えた。
愛嬌たっぷりの笑顔で「サヨナラ、サヨナラ…」と語る独特のあいさつは、さまざまな芸人のモノマネの対象にもなり、いつしか彼の代名詞として語り継がれるようになっていく。

淀川は「映画が終わったのに、まだ席に座っている老人がいる。映写技師が『終わりましたよ』と声をかけると亡くなっていた」というのが理想的な最期だと語っていた。

彼は生前亡くなる前日まで「日曜洋画劇場」の解説収録をした。スタッフは体調を気遣って1回でOKを出したが、自分でダメだしをして収録を終えたという。
文字通り、自分が望んでいた生涯現役の人生だった。

新開地は彼が生まれる4年前、1905年から旧湊川を埋め立ててできた造成地である。
当初は広大な空き地が突然出現したままであったが、まるで淀川長治の成長に合わせるように次々と映画館が建てられ、徐々に一大繁華街として発展。「東の浅草、西の新開地」と呼ばれるようになった。
全盛期には約20館ほどの芝居小屋や映画館が本通り沿いに軒を連ねていた。彼は「新開地は、僕の映画学校だった」とも語っている。

新開地で生まれて育った私には、憧れの人である。そして、年をとるに連れて、その憧れが大きくなる珍しい人物である。

夢中な人には勝てない

私は2年前に本当に好きなこと、やりたかった道に転身した人たちを取材して『転身力』(中公新書)を執筆した。
転身という観点からみると、歯を食いしばって努力して頑張る人は、自分の好きを極めて夢中になっている人のようにスムースに転身できない。

先述の淀川の自伝を読むと、「映画好きを極めたい」という純粋な気持ちが周囲の人たちの応援を得て、様々な人との出会いにつながっていることがわかる。また好きを極めている人には子どものような無邪気さがあるので、周囲の人がその人を疑わない。
意識しなくても信用を得ることができるのだ。

そのうえ夢中になっている人は、自らの可能性に疑問を抱かないので、取り組む時間や内容がとんでもなく大きい。
普通の人は簡単には追いつくことができない。机上の資料や情報を使って客観的な姿勢で調べようとする人は、自身の課題を解決するために夢中になって誰彼となく話を聞き、どこにでも行く人にはかなわないのである。
また何か不都合があった時にも計算できないエネルギーでリカバーできることが多い。

好きを極めているという意味では、さかなクンもそうだろう。
東京海洋大学の客員准教授にして名誉博士号を取得。テレビ番組などにも引っ張りだこである。

彼の自伝ともいえる『さかなクンの一魚一会 〜まいにち夢中な人生!』(講談社)では、小学生時代から現在までの魚や生きもの達との出合い、友人達との関係などを赤裸々に語っている。

さかなクンの自叙伝。大好きなことを見つけて、夢中になることの強さ、尊さ、輝きが詰まっている。2016年刊

魚に夢中になりつづけてきた経緯がこの本にはつまっている。そして読んでいる時のワクワク感が淀川長治の自伝を読んでいる時と全く同じであることに気がつくのである。

淀川長治とさかなクンとの共通点

淀川長治とさかなクンによる上記二冊の書籍から、二人の共通点を私なりに抜粋すると下記のようになる。

① 家族の後押し
淀川家の家族は、祖母や両親や姉も家族全員が映画(活動写真)ファンで、幼児の淀川も神戸新開地の活動写真館に出入りしていた。またいい映画を観た淀川が自宅に電話して「来い」というと、家族はぞろぞろやってきたそうだ。
当時は、「映画館へ行くような生徒は不良だ」という風潮があったが、淀川は「堂々と映画館通いを続けていた」と明かしている。

さかなクンは、小学校の授業中も全く集中せずに、答案用紙に魚の絵を書いて提出することがあった。担任の先生が母親に家庭でもきちんと指導してほしいと言うと、母親は「この子は魚が好きで、絵を描くことが大好きなんです。だからそれでいいんです」と応えていつも彼の背中を押してくれていたそうだ。

② 先生まで説得してしまう
淀川は旧制兵庫県立第三神戸中学校(現兵庫県立長田高等学校)に進学した。
映画館に来る不良生徒はいないかと監視に来ていた先生がつい上映されていた映画に関心を持つと、「先生、よかったでしょう」と淀川が声をかけた。「うん、よかったな」と素直に教師は答えたという。

さかなクンは、小学6年生の時の「家庭学習」で、魚をテーマに書いたところ、釣り好きの先生が大喜びして職員室でさかな談議に花が咲いた。彼が書いた内容を新聞にして教室に張り出してクラスメートにも読んでもらっていたそうだ。

③ 将来の夢も実現してしまう
淀川は、12歳の頃から朝起きて映画のことしか考えない生活になる。
その後は周囲の後押しで、映画会社の宣伝部、映画雑誌の編集長、テレビの『日曜映画劇場』の解説などの仕事が次ぎ次と舞い込み、自然と前途が拓けていく。

さかなクンも小学6年生の卒業文集に、「東京水産大学の先生になって、お魚の図鑑を作りたい」という夢を実際にかなえている。

淀川も若い頃、「学校の先生にもなりたいという望みがチラリとあった」ので、「映画友の会」を42年間続けた。黒板を背にして最大300人くらいの若い人に映画の見方や感覚を磨くための講義をしたという。その中には若い頃の永六輔もいた。淀川は84歳までこの会を続けた。

「映画」「魚」と対象は違っても、二人の好きで好きでたまらない「数奇心」が何とも言えない。

後に紹介する作家の沢木耕太郎(以後、敬称略)は、「淀川さんって本当に面白い人だったんだけど、『嫌いな人、面白くない人に会ったことがない』って言うわけ」と語っている。

映画好きのエネルギーが彼をそうさせているのだろう。ひょっとしたら、さかなクンも「嫌いな人は一人もいない」と言うのかもしれない。

淀川長治と沢木耕太郎との対談

沢木耕太郎の二冊の本には、淀川長治のことが書かれている。

銀座の映画の試写室で顔見知りになった淀川についてのエッセイ『「銀河を渡る 全エッセイ』)と、淀川長治との長時間の対談である(『達人、かく語りき (沢木耕太郎セッションズ〈訊いて、聴く〉) 』がそうだ。

『沢木耕太郎セッションズ〈訊いて、聴く〉』は全4冊。「「私の・愛した・映画」淀川長治」が掲載されている『達人、かく語りき』は第1巻

沢木は淀川の晩年に一度だけ赤坂の「東京全日空ホテル」(当時)の中華料理店で対談した。
もっとも、対談とは名ばかりで、沢木が言葉を発したのは「4時間のうち15分もなかっただろう」とほぼ淀川の独演会のようなものだったと語っている。

この対談を取り上げたのは、新開地で育った淀川のことが一番理解できるコンテンツではないかと考えているからである。

対談の冒頭では、沢木に対する第一印象からだろうか、
「あなたは残酷だ。自分がハイクラスだから、私をばかにしている」
「あなた、非常に品のいい山の手でピアノ弾いているお嬢ちゃん、僕はほんとにドヤ街の娘という感じ(笑)」
などと淀川は沢木との違いを強調する。

この2024年8月18日に世界的な二枚目俳優のアラン・ドロンが88歳で死去。
『太陽がいっぱい』(1960年)は彼の出世作である。作家の吉行淳之介は、淀川が「(『太陽がいっぱい』では)アラン・ドロンと彼が殺すことになったモーリス・ロネはホモ・セクシャルの関係」と解釈したのを聞いてとても驚いたそうだ。

それを対談の中で、沢木が淀川に話すと「吉行さんもあなたもお坊ちゃんだからだめなのね。苦労がないの」と語っている。
「二人が桟橋を歩いているところで(ホモ・セクシャルの関係)がわかるように描かれていて、近くで二人を眺めている漁師風の男たちは、それが分かっているので薄笑いをしている」
というのが、淀川の解釈である。

その後も「あなたが非常に上品なご家庭で、清潔な生活をしているから気がつかない。僕らは下賤な生活をしているから、すぐわかる」と続けて、対談の前半では自分を卑下する言葉を繰り返しながら沢木を挑発するような言葉を投げかける。

しかしながら、沢木の映画に対する見方や、彼と父親との関係、沢木が作家として敗者の物語に強く惹かれていることがわかって、後半になるとトーンが変化する。
「そうでしたか。あなた非常に土台があることがわかりました」「あなた非常にいいですね。ノーマルで。僕はへんてこりんだ」「実際は傷だらけの精神も持っているのね」
などと次第に沢木の人物や力量を認めていく過程が読み取れる。

実は、私自身も20年ほど前に沢木耕太郎の講演を大阪で聞いたことがある。
初めに会場に入ってきたときに、長身で端正な顔つきと雰囲気を見て、あまり馴染めない人かなと思った記憶がある。
淀川と同様な第一印象を私も感じていたのである。当時は、新聞連載の機会をもらったのでノンフィクション作家の沢木からヒントを得ようと考えて参加した。

話の具体的な内容は記憶にはないが、講演を聴いているうちに印象は変化していった。
おそらく淀川と同様に沢木がアッパークラスだけでなく、庶民的な生活者や敗者に対する温かいまなざしを感じ取ることができたからである。

誰に対しても接する態度が変わらない

長時間の対談の中で、淀川は沢木にいろいろな話を語っている。
当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)から会いたいという依頼があったという。大きな車が迎えに来て東宮御所に招かれた。すると「浩宮さまがみえて、後からご両親も」。
「ご両親というと天皇と美智子さん?」と沢木が聞くと、「そう」と言った。

全員が座って話が始まった。
淀川が皇太子殿下に「あなたはどんな映画が好きなの?』とお聞きした。
「ルキノ・ヴィスコンティが好きです」と答えが返って来た。英国の学校に行っていた時に、『ベニスに死す』を含めてすべて観たという。
「パパは『ローマの休日』が大好きです」とおっしゃって、ママは『哀愁』です」と沢木に言ったそうだ。

その発言を受けて、沢木は「それは淀川さんのすごいとこですね。東宮御所に行っても、僕に対するスタンスと全く変わらないで対応できる。あのお二人にパパ、ママと呼びかけられるのは、日本中探しても淀川さんしかいないでしょうね(笑)」と返していた。

この逸話は、博物学者である南方熊楠が、生物学に興味を持っていた昭和天皇に対して、粘菌標本を桐の箱ではなくて森永キャラメルの箱に入れて渡したという話を思い出させる。

淀川のように、「誰に対しても接する態度が変わらない」ことが、子どもの頃の周囲の大人たちが人を評価する一つの基準だと小さい頃から感じていた。
20代に初めて就職した時の一番の違和感はこの点だった。上司に対する態度と部下に対する態度が大きく違う人が少なくなかったからだ。

もちろん会社員だけに限らない。
以前、宗教関係の著述家と会合で一緒になった。たまたま会場に早く着いたので二人きりだったが、私が笑顔で謙虚に語りかけても不愛想な表情で不機嫌な応対だった。初対面だったからかもしれない。
ところが会合の主役が入ってくると、手の平を返したように笑顔に変わり、急にその主役に愛想をふるまう彼の姿に驚いたのである。

「誰に対しても同じ態度で接することができる」ためのポイントは、頼るべき組織や生産手段を持たない人たちに視線が及んでいるかどうかである。
そのため特に庶民的な地域では、相手が自分たちのことが分かっているのかどうかという点に過敏である。そこには「自分たちはアッパークラスではない」とのコンプレックスが横たわっている。

淀川長治のコンプレックスと映画愛

神戸・新開地の喜楽館に出演した落語家が、舞台に出る前に髪を揃えておこうと料金の安い理髪店に行った話をマクラでしゃべっていた。

床屋の主人に「お客さんは何をしているんですか?」と聞かれて、「落語家です」と答えると、「なんやそれやったら、線を引いたら私らと一緒でこちら側の人じゃないですか」と言われた。
「その線というのは一体どこにあるんでしょうね?」と客席に問いかけると大きな笑いが起こった。新開地の喜楽館にいた多くの人は漠然と意識しているのである。

淀川は子どもの頃は経済的には恵まれていたが、下町の芸者置屋の跡取り息子でもあって、大変な境遇にある人や世の中の不条理を感じていたことは想像に難くない。
また徴兵検査では、甲乙丙丁の評価ランクで「丁」で、「眼が近いし身体が小さいし、非常に病弱だったから赤紙が来ないの」と言っている。また学問や教養に対するコンプレックもあったという。

しかし映画館に行くと、立派なイタリア映画を、学校の先生、蕎麦屋のおっさん、おじいちゃんが観ている。学問がなくてもみんな映画を観ている。
「劇場に行くのはエリートや金持ち。芝居も文楽も浄瑠璃もそう。でも映画は誰でも観れる」と自伝で語っている。

自らのコンプレックスと小さい頃からの映画愛もあって、一生を映画にかけることを決意している。
彼の表情の輝きは、人生を底辺から理解している人が持っているものなのだ。

チャップリンの姿がシルエットになった新開地のシンボルゲートBIGMANで

私が組織の上位職になって感じたのは、落語家の語った「線の外側だけで働き、生活すること」の息苦しさだった。
50歳で平社員に戻り、著述業を始めると、毎日が楽しくて嫌なことは全くなくなった。内側にも足場を置くことができたからである。

沢木との対談では、淀川がほぼ一方的にしゃべっているが、沢木も負けてはいない。
対談の最後に意味深な言葉を残している。
「そういえば、対談の最後に、淀川さんが私に質問をしてきた。沢木さんは奥さんや子どもさんがいるの、と。私が、ええ、と答えると、淀川さんがほんのちょっぴり哀れむように言った。『じゃあ、だめね』」

劇団四紀会「新開地物語・後編」

2007年9月21日から24日の4日間、劇団四紀会の50周年記念公演「新開地物語・後編」が催された。

 劇団四紀会の50周年記念公演「新開地物語・後編」ポスター

遊郭で働かざるを得なくなった小雪と映画評論家になった男性との恋愛劇である。映画評論家は、淀川長治をモデルにしている。

当時、2003年に執筆した『ビジネスマン「うつ」からの脱出』(創元社)の中で、かつての新開地のことを書いたので、劇団担当の人から「新開地物語・後編」のPRチラシに、私の文章も載せてもらった。
先述の「線の内側」に戻った時の気持ちを下記のように書いた。

休職して途方に暮れた私に蘇ってきたのは、生まれ育った新開地の光景と人々でした。聚楽館、お笑いの神戸松竹座、邦画・洋画の各映画館、春陽軒のぶたまん等々。つっかけで歩き回れる庶民の街で、人間のを出しながら生きていたおっちゃん、おばさん、友達とその家族、皆の「いい顔」がたくさん浮かんできました。それは、頭の中ではなく、まるで身体全体で記憶を取り戻したような感覚でした。
私の今後の夢は、新開地にゆかりのある人を描きながら、自分自身のルーツをもう一度掘り起こすことです。映画評論家の淀川長治さん、漫才の中興の祖・砂川捨丸さん、推理小説の横溝正史さん、漫画家の水木しげるさん、など多くの方がおられるのです。

「新開地物語・後編」のPRチラシの文言(抜粋)

20年近く前に書いた夢に今は取り組んでいる。



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