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第15回 神戸・新開地「喜楽館の漫談とR-1へエントリー」(上)

喜楽館の舞台に立ちたい

昨年の11月30日に、帰阪のために東京駅から新幹線に乗車して、スマホで音楽を聴いていると、学生時代の友人N君からSNSで「Y君が11月2日に亡くなった」と連絡が入った。
N君に喪中はがきが届いたそうだ。
「体調を崩していたのかな。ショック」
「4年前に会った時には元気だったのに」
「あんないい奴が早くに亡くなるなんて」
「彼の分も楽しく生きよう」
「偲ぶ会をやろう」
などとやり取りをしていると涙があふれて止まらなくなった。

イヤホンから聞こえてきた坂本冬美のカバー曲「なごり雪」の歌声が、当時のY君との思い出をさらにかきたてた。

大学のグラウンドで一緒に早朝野球に取り組み、生協の食堂で他愛もない話でいつも盛り上がっていた。彼は奈良の山野辺の道を歩いた爽快感を何度も語るなど自然を愛した。剣豪小説について私と感想を交換することもあった。
Y君は社会人になっても生真面目さを失わず、人の悪口などは一切言わず、
私の『定年後』(中公新書)がヒットした時も心から喜んでくれた。

自宅に戻ると、私にも喪中はがきが届いていた。
昨年の年賀状を確認すると、手書きで「元気でやっています」と追記されていた。60代で急に人生を終えるのはどれだけ無念であっただろうか。
濃密な時間を一緒に過ごした友人を亡くすことは本当に辛い。

心の整理がつかないままにパソコンを開くと、FACEBOOKに【新開地万博 輝く!シン・新開地スター誕生!】というサイトが目に留まった。

「翌年の1月5日の夕刻から、上方落語の定席、神戸新開地・喜楽館を借り切って開催。演芸や歌、『ステージに上がってみたい!』という方ご連絡お待ちしております!」
とのフレーズが書かれていた。

生まれ育った地元の喜楽館の舞台に一度立ちたいとの気持ちがわいてきた。
サイトによるとプロでもアマでもOKだったので、「私も参加できるかもしれない」と思ったのだ。

Y君の訃報を受け取って、やりたいことがあれば、その時にチャレンジしなくてはならないという気分になっていた。
会社員の働き方や定年後の過ごし方などのテーマで講演や研修の機会はいただいているが、もう少し話の幅を広げたいと以前から考えていた。

また古希を過ぎてからお笑いの世界に飛び込み、70代半ばを越えて活躍する、吉本興業所属のお笑い芸人「おばあちゃん」を取り上げた記事も読んでいたので、それも刺激になった。

その場で参加の意思表示をした。

本番に向けての準備

この「新開地万博」のサイトにアップされた私の自己紹介欄には、
「歌えない、楽器はできない、踊れない、落語はとてもできないという楠木新が、地元の喜楽館で、何とか舞台に立ちたいと参戦を決意。(新開地にあった)神戸松竹座で子どもの頃に観た西条凡児さんの漫談への憧れからの初舞台です。ペンを捨て、口先のしゃべりに挑戦します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
と書いた。

本番までは1か月。連載の執筆や、講演などの仕事の合間を縫って漫談の準備を始めた。
その準備の3つのテーマは以下である。

1 西条凡児の漫談を求めて「ワッハ上方」へ
まず西条凡児の過去の漫談を聴いてみたかった。喜楽館でのパフォーマンスの参考にするとともに、懐かしい気持ちもあったからだ。
YouTube で検索しても漫談はアップされていない。大阪のナンバにある大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」に出向いたが、やはり音源は保存されていなかった。
彼は漫談家として2000年度に上方演芸殿堂入りを果たしている。

それにもかかわらず、落語や講談のような伝統芸能でないためだろうか、資料は残っていないのである。

「西条凡児」のワードで番組検索をすると、テレビ番組「米朝・小浜の上方笑芸繁昌記」(朝日放送、2000.3.17)の映像を観ることができた。
人間国宝の落語家桂米朝と、女流漫才師の海原小浜(孫は漫才師の海原やすよ・ともこ)の上方芸能についての座談番組である。二人は西条凡児を高く評価していた。
小浜は「海原」の名前を付けてくれたのは凡児先生だと語り、米朝は、まもなく彼に対するインタビューをまとめた書籍が出ると話していた(注1)。
その本を読むと、実際の漫談内容を再現している個所もあるので子どもの頃に聞いた記憶が蘇ってきた。

余談ではあるが、西条凡児が司会をしていた『おやじバンザイ』というテレビ番組で、中学3年生の西川きよしが、父親と一緒に登場して喋っている音声も紹介されている。
西条凡児が長く司会をしていた『素人名人会』を西川きよしが引き継いだことを思うと興味深い。

2 いろんな演芸劇場に足を運ぶ
上京した時に2週連続で神保町よしもと漫才劇場に行ってみた。
初めの週は漫才、翌週は、ピン芸(1人で活動するお笑い芸)の出し物だった。

ピン芸は漫才に比べて笑いも少なく満足感も低かった。観客も少なくて会場の盛り上がりにも欠けた。
その理由を私なりに考えてみると、ピン芸は漫才に比べると、現実的な場面の醸成がむつかしい。漫才では舞台上で二人の会話が成立すれば、それだけでリアル感がある。

一方でピン芸の場合は、客席との空気感を短時間に一人で創り上げなければならない。R-1グランプリがM-1グランプリに比べて地味なのはこの点にあるのかもしれない。

12月上旬の日経新聞で、俳優・イッセー尾形が「元より一人芝居は『そこに無いもの』を相手に組み立てるからどうしてもバーチャルだ。一方舞台に実際に人がいればバーチャルは自分勝手な余計なものとなる」(注2)というのも同様なことを語っているのだろう。

12月は神保町の漫才劇場のほかにも、なんばグランド花月をはじめ、東京浅草のリトルシアター、大阪心斎橋の楽屋aなどで若手のピン芸も数多く観た。

東京浅草のリトルシアターのMCの二人

楽屋aでは、企業や役所などの組織で働く社会人芸人が出場するイベントもあった。会社員と芸人との二足のわらじを履いている人がこんなにいるのだと驚いた。
市役所に勤めながらピン芸を披露する芸人もいた。私の若い頃とは意識も相当変わっているのだろう。

3 知人の二人に相談する
喜楽館にエントリーすることを決めてから、二人の知人に相談した。
一人はアマチュアとして、コミカルなシナリオ作成に挑戦しているKさん。
もう一人は会社員当時の後輩で大学当時から演劇を続けている50代のAさん。

Kさんは漫談で舞台に立つという話を聞いて、ピン芸で活躍している人のYouTubeを数多く提供してくれた。その一つ一つを観ながら、実際に舞台で語ることは簡単ではないことを痛感した。

白衣姿で医事漫談を展開したケーシー高峰や、前述したお笑い芸人「おばあちゃん」のように自身のキャラを際立たせることは、芸歴も実力もない私にはできない。自分自身の経験や取材したネタを使って話すスタイルしかないと思い知った。
Kさんはそれを聞くと、明石家さんまが誰とも絡まず漫談調に喋っている動画を送ってくれた。

一方Aさんは、フリーの立場で今も各種のオーディションを受けながら演劇に取り組んでいる。彼からは、自分が話している姿を動画撮影してチェックすることを勧められた。彼自身も表情や身体の動き、発声など動画を観ながら自身の演技を確認するのだという。
彼は無理にキャラ作りをするよりも、自分が見聞きしたことをベースにする方がリアル感を出せるだろうとアドバイスをしてくれた。 

たしかに、西条凡児の漫談も「今日出がけにこんなことがありました~」から始まって、話が膨らんでいくという展開だった。私が敬愛する浜村淳、上岡龍太郎も自身のキャラで勝負している。

もちろん彼らとは才能もレベルも何もかも違う私ではあるが、楠木新は楠木新でやっていくしかないと理解した。

(注1)番組が放送された時期から『凡児無法録―「こんな話がおまんねや」漫談家・西条凡児とその時代』(戸田学 たる出版 2001/3)と思われる。インタビューをもとに徹底的に西条凡児に迫っている内容である。
(注2)日経新聞(23/12/9夕刊)『バーチャルと実体 俳優 イッセー尾形』(あすへの話題)

R-1グランプリにもエントリー

KさんとZOOMで話している時に、何気なく「R-1グランプリ2024 公式サイト」を検索すると、一回戦のエントリー期間が11/21~ 12/20だった。
喜楽館に漫談で出場するなら、こちらも試しにやってみようとエントリーした。どうせダメモトだからと二つの舞台を経験しようと考えたのである。
1回戦の日程は、1/5の喜楽館の舞台が終わって、5日後の1/10と決まった。

R-1グランプリの1回戦は参加者が多く、東京と大阪でそれぞれ数日にわたって実施される。
12/30、1/4の両日は、大阪市北区のカンテレ扇町スクエアであった。観客席で一人2分間のピン芸を合計100組ほど観た。

R-1グランプリ(大阪)の1回戦の舞台

若い人が真剣に取り組む姿を見ていて「いいなぁ」と心が動いた。50人程度の観客が出演者に対して温かいことにも気づいた。応援している雰囲気が伝わってくるのである。 
小学生の女の子も参加していた。50代以降の人はいなくて私は最高齢になるだろうと想定した。
自作のフリップを使う芸が半分以上、事前に持ち込んだ音声を使う人も少なくない。漫談的なしゃべりだけに終始する人はほとんどいなかった。

観客席で100組の各登壇者のメモを取っておいて、当日夜の合格発表とメモを照合してみた。合格者に赤丸をつけて、二人の審査員が合格と判断する基準を把握しようとしていた。
R-1の右も左も分からなかったので、まずは審査基準を知ることが第一歩だと考えたからだ。

会場で受けたかどうかと合格する人とは必ずしも一致していなかった。
実際、演者が笑いをとれず、袖に入る前に首をかしげた人も合格していた。舞台の上で「伝える力」が試されているのだと私は理解した。

R-1グランプリの1回戦は、喜楽館の漫談の5日後なので、それが終わってから追い込もうと考えた。ある程度のシナリオは頭にあった。

年末年始は大わらわ

喜楽館の漫談に与えられた時間は8分間。年末年始はネタの作成にかかりきりになった。年末までに、大まかなシナリオを作成した。

頭の中に描いたタイトルは、「ダボの壁」(「バカの壁」ではありません)。
私自身が兵庫県立神戸高校に入学した時に感じたカルチャーショックを基本ベースにしている。芦屋、東灘地域の阪神間モダニズムとでも呼ぶべき洗練された芸術・文化・生活様式と、私が過ごしてきた庶民的な神戸・新開地界隈との対比をコミカルに語ることにした。

芦屋、東灘地区と新開地界隈において、高校生になるまで聴いていた音楽の相違、勉学レベルの落差、アウトローの有無、言葉遣いの違いなどを具体事例で述べることにした。

余談になるが、ノベール文学賞候補として毎年名前を挙げられる村上春樹は、神戸高校の6年先輩にあたる。
彼の小説を読んでいる時に、不意に芦屋や東灘あたりで育った同級生が持っていた雰囲気を思い出すことがあった。
新著『街とその不確かな壁』(新潮社)に関する神戸新聞のインタビューに対して、彼は、「僕が育った阪神間の川は六甲山からまっすぐ下りてくるからとてもきれいなんです。僕の中にある川は兵庫県の芦屋や夙川あたりのきれいな川のイメージが強いです。『壁に囲まれた街」(今回の作品)を流れるのも「美しい川」ですよ』と語っている。 

「もし村上春樹が、新開地・福原で生まれて育っていたら彼の執筆する小説はどうなっていただろうか?」
という訳の分からない妄想をするくらいに両者の違いは私にとってインパクトがあったのである。

数年前の神戸高校の学年同窓会でスピーチを求められた際に、このカルチャーショックについて話したが、同窓生には大ウケだった。
神戸市内の東西の文化格差を感じていた人は多かった。ただ西にいる人の方が敏感であり、東側にいる人は意識していないことが少なくない。

漫談の話に戻ると、両地域の違いを強調したうえで、明治以降の街の発展をみれば神戸は、3つの地域に分けることができると整理した。
①芦屋・東灘・灘地区
②三宮・元町地域
③兵庫・長田連合区
この3つにわけることができ、その上で新開地界隈の優位性を主張するという展開にした。

ある程度シナリオが決まると、100円ショップで購入した発泡スチロールのフリップに神戸市の地図を張り付けて、話が分かりやすくなるようにマジックで書き込んだ。

喜楽館の漫談で説明用に使ったフリップ

また年が明けてからは、Aさんの「自分の演技を観ること」というアドバイスに沿って、一人でZOOMを使って何度も何度も画面の前で、語りや姿勢、仕草などをチェックして、要した時間も一回一回確認した。

一番初めの作成した原稿では、8分の時間枠に対して、12分程度になった。
これではいけないと、原稿の文章を大幅に削りながら繰り返し点検することで、シナリオが簡潔になるとともに自分の頭の中に入ってきた。

                               (下)に続く


    


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