想像を超えた4年間
引退ノート 62代団長 古田徳幸「想像を超えた4年間」
引退したら応援団のことは全て忘れようと思っていたのに、癖で手で小さくチーフの練習をしてしまう前団長古田です。引退ノート最後(2人だけど)を務めさせていただきます。
本当に文章を書くのが苦手なのですが(それで卒論でも苦労してます)「引退ノートだから…」と多めに見てくださいますと幸いです。
僕が初めて応援団を認識したのは、入学式の前に行われたレイバンズの新歓から帰ろうと食堂を出た時、学ランを着た前団長に声をかけられた時です。あの出会いによって僕の4年間が決定づけられました。その後応援団居ついて調べ、応援団は1年前に全団長が復活させたこと、その方と留学生の方の2人しか所属しておらず新入生が入らないとまた休部状態に戻ってしまうことを知りました。せっかく頑張って復活させたものがまた無くなってしまうのは「勿体無いな」と思い新歓に行きました。新歓に行って活動についての話を聞きましたが、正直あんまり活動には惹かれませんでした。というのも僕は人前に立つことが苦手だったし、一番応援に行く野球も好きじゃなかったし、サブの動きもチーフの動きも全くかっこいいと思わなかったし、大学生で学ランはキツいなと思ったし・・・等々。正直、やらない理由は無限にありました。それでも入部を決めた理由は、かっこいい先輩がいたことと「ここに入れば何か面白い、想像を超えた4年間になる」という予感を感じたからです。今、その予感は間違っていなかったと自信を持って言えます。
1回生の時は厳しい1年でした。練習がキツイのは言わずもがな、段々と同期が減っていきました。単純に寂しくなることもありましたが、同期が辞めていくたびに自分が選択した応援団を否定されるような気持ちになりとても辛かったです。学部の友達にサブの動きを笑われたこともありました。「なんのためにやってるんやろ」と毎日自問自答していました。
それでも得点時にみんなで応援歌を歌う瞬間や、エール交換の時にみんなで声を合わせるあの瞬間はとても好きでした。瞬間、瞬間で見ると楽しいこともありましたが、総じて考えると「よく続けたなあ」と言いたくなる1年でした。
2回生の時は楽な1年でした。コロナ禍でこれまでの活動が出来なくなりましたが、その中で団運営をどうしていくかを考える幹部の立場でもなく、練習も少ないため肉体的にしんどいこともない。1回生の時と比べてなんとなく日々を過ごしてしまいました。そんな日々でしたが後輩が入部してくれたのは素直にとても嬉しかったです。数ある団体の中から応援団を見つけて勇気を出してDMをくれた子がいる、しかも4人も!この頃から入団したことを後悔させないような団体、人が辞めない団体にしたいという意識を強く持つようになりました。
3回生の時は責任と不安の1年でした。団長になり「人が辞めない団体」を意識して活動していた矢先に後輩が退部してしまいました。自分の視野の狭さを情けなく思い後輩に申し訳ないと言う気持ちでした。反省して「より良い団にするために頑張ろう」と思っていたところ、さらにもう1人休部者が。今振り返るとこの時期が一番辛かった。団長という立場でありながら何回もやめたいと言う気持ちになった。その後チアの復活や「なぜ今!?」という嬉しい誤算の途中入部者数名が加わり、賑やかな団になりました。
4回生の今年はとても良い一年でした。コロナ前のような活動ができた上に同級生の友人が試合で活躍するようになり純粋に試合を楽しむことができました。最後のステージである翔鷹祭では応援団について何の予備知識がない人でも「なんかわからんけどすごい!」と思ってもらえるような熱量と迫力を目指して準備に取り組んできました。実際ステージが終わった後には何にも応援団について知らない地元や学部の友人に「すごかった!」と言ってもらいとても嬉しかったです。
翔鷹祭の最後にステージから会場のみんな肩を組んで応援歌を歌っている光景を目にした時、入部してよかったと心底思いました。あの空間に応援団の良さが詰まっていたと思います。
4年間やって思うことは、「人に恵まれた」ということです。先輩、同期、後輩はもちろん、学内の友人、三商京阪関関同立のみんなとの出会いが自分を成長させ、生活を豊かにしてくれました。
当初の目論見通り「想像を超えた」4年間になりました。
それではみなさんまた飲みに行きましょう。六甲道の鳥貴族で待っています。