(エッセイ)変な意味ではないのだが…
ちょうど今、駅のホームにひとりで立っている。午後22時54分。そろそろ23時になる。電車を待っているあいだに通過電車が2台、ものすごい速度で目の前を通り過ぎていった。
12月も中頃になり、最近はいっそう寒さが増している。コート無しで出かけたのがバカだったなぁ、と後悔しながら薄手のスーツをさすってみたりするが、風も吹いてきてなおさら寒い。
前置きはここからにして、本題に入る。あらかじめ言っておく、別に変な意味はない。これから読むことで執筆者の人格や心理を推察してみたりするのはまったく無用なことだから、ただ字面を追っていただくだけで結構だ。
さて、はじめに通過電車が通ったことについて書いたが、こういうことは電車に乗ろうとするたびにあるし、別に珍しくも何ともない。普通なら何気なく看過してもよさそうだが、なんだか思うところあってつい電車に目を配ってしまうのだ。
時刻板が点滅して、アナウンスが入ると、遠方から電車がやってくる。はじめはとても遅く感じるけれど、次第に接近する速度は増してきて、今ようやく車掌や乗客の顔が見えたとき
「アア ハヤイナア」と思う。
構内の空気をぜんぶ吸い込むくらいの、大きい掃除機みたいな音がようやく耳に届くと
「チカイナア」と思う。
足元を見て、靴へと目を見張り、つま先の向いている方向へとさらに視線を動かし、ちょうど目の前を通っていく電車の揺れを感じると
「アア サッキ シヌコトモ デキタノニナア」と思う。
またまた言わせてもらうが、別に変な意味はない。ただそう思っただけである。けれど、たしかに通過電車が通る瞬間、ホームから軽く飛び出していれば確実に死ぬのである。
なぜ跳ばなかったのかといえば、それは次の電車に乗りたかったからで、かつ死ぬ理由も無いからだ。そして死ぬ理由があったとしても電車に轢かれるのはまっぴら御免である。皆んなもそう考えるはずだ。
しかし考えてみれば、現代社会でこれだけ手軽に死んでしまえる方法も他にない。死ぬ方法ならいくらでも思いつくが、少なくともこの国で「即死でき」ることが「向こうからやってくる」場所なんて、駅くらいしか思いつかないのだ。車に轢かれても死なない場合が多いし、飛び降りだって即死はできるだろうが自分から高いところに登らなければいけない。
向こうから到来してくる死とは何かといえば、それは爆弾だったり鉄砲だったり、物騒な戦争の兵器だ。もちろん、その威力を目の当たりにしたことは一度も無い。この国はなんだかんだ平和なのだ。
ところで日本の電車は世界一だとよく言われる。たしかにあれだけ精確に定刻通り発着してくれる電車はほかに無いだろう。けれど、それが爆弾なんかと同じ「訪れてくる死」で、さらに時刻表に定められた通りに、際限なく効率化されていると考えると、なんだか不気味に思えてくる。
まあだからと言ってこれから電車に入るのはおろか、駅を見るのだってイヤだ!と言いたいわけではない。当然これからも移動の際は各種公共交通機関にお世話になるつもりだし、揺れる電車のシートに座るのは楽しい。なんだかんだ電車を満喫してしまうのだ。
しかし東京の鉄道路線図を眺めると、移動時間の短縮を実現させた網目を、そのまま反転させたネガとして、死の機会を均等に分配するための奇妙な配線ケーブルたちを見出してしまう。
おそらく、ひとつの技術は一定の段階を迎えたとき、その技術自身により、技術自身のバグを生み出してしまうのだろう。大戦中に戦闘機を製造していた技術者たちが、戦後になって新幹線も設計したと聞いたことがある。都市の中でこういうバグのようなものが幾つあるのかは知らないが、もしも駅よりもっと身近な場所にあるのなら、それは人間ひとりをまったくの運命的な暗渠へ放り投げるくらい、簡単なことに違いない。きっと。
少なくとも、駅のホームに立っているとき、誰もが高度な技術の生み出した突風に、肌を掠めている。吹き飛ばされないように注意しなければいけない。