(創作)大きな犬

    -犬にまつわるひとつの断片-

 タロウの寝床が冷たくなって、二十四回目の朝がやってきた。いつもなら散歩のために早く起きなければならないマサルは、三十分も遅く寝坊してしまい、危うく学校に遅刻しそうになる。五年も一緒に住んだ飼い犬だ。愛犬を失った悲しみもあるが、もう面倒を見なくてもいいという浅はかな安心感が彼の眠気を増大させた。布団から飛び起きると急いで服を着替え、朝食も食べずに歯を磨き、ランドセルを背負って勢いよく玄関を飛び出した。
 一体タロウは我が家のどこが不満だったのだろうか。日本の愛玩犬の平均的な生活水準に照らし合わせればおそらく十分に幸福な環境を与えてきたことに、マサル一家は絶対の確信を得ていた。片手に乗るほど小さかった子犬の頃から丁寧に育て上げた愛犬がある日突然蒸発してしまうという不可解な現象についてマサルとその両親はたびたび話し合ったが、一向に解決策は見当たらない。近隣住民に聞き込みを続け、本来関わりたくない町内会の老人たちとも談判し、逃走した犬を確保するための布石は十分に整えている。あとは網にかかるのを待つだけだが、その時間が一家には呆れるほど長く感じられ、もはやタロウのことはすぐに忘れた方がいいのではないのか、という楽観とも悲観とも言い難い意見まで飛び出るほどだった。そのなかでもマサルはただひとり、タロウのいない生活に早くも慣れようとしつつ、同時に再び出会うことができるのではないのか、という希望を、子供ながらに抱くことができていた。
 彼の通学路には近所で有名なゴミ屋敷がある。この手の家の主人は一般の人間が考える印象と違い生ごみはきちんと捨てるため、かの殺生石のごとく毒気を放つことはまずない。だがこの屋敷には明らかな異臭があり、住人はみな家の前を通ることなくほかの道で迂回していた。だがマサルたち小学生にとって、鼻を苛めるような臭気は毒気ではなくロマンの予感そのものだった。ときおり放課後になると上空にカラスが飛び交う屋敷の窓に向かっては、石を投げたり漫画本で学んだ西洋の呪詛を唱えたりしてみる。
「タナナ…タナナ…タナナ…」
もちろんこの異人の言葉につられてサタンやらベルゼブブ等の魔の者が召喚されることはなかったが、マサルは一度だけ、タロウの鳴き声のようなものを聞き取ったことがあった。それは風が電信柱にぶつかって渦を巻く音にも聞こえたし、バイクが唸らせるエンジン音だったかもしれない。いずれにしても彼にとってのタロウにまつわる直接の記憶はこの時点で途切れたままになっている。以降はときおり思い返す愛犬との思い出、いわば記憶に関する記憶でしかかつての生活を遡及できなくなっていた。それで良かったのだろうと判断することも、それではいけないと断定することもできないような曖昧な情報のあわいのなかで、彼は自然と大人になっていった。

    -人にまつわるひとつの断片-

 仕事も夏休みに入り、マサルは帰省することになった。帰省と言っても、広大な田園や険しい山脈など存在しない、都内の住宅街に過ぎない故郷へ二日ほど親に顔を出すていどのものだ。大学を卒業してから六年ほど経ち、両親とは何度か会っているものの、いずれも食事や日帰りの旅行に出かけることばかりで、実家に帰るのはまる十年近く久しぶりになる。一昨年購入した中古車を運転しながら、かつて飽きるほど眺めた街の変わりようを彼は堪能していた。例えば、駅前にあったコンビニは潰れ、そこにパチンコ屋が建ち、一年も経たずに潰れると、今度はカラオケ屋ができ、それもすぐに無くなると、別のコンビニが営業を開始した。同級生の住んでいた家もいつの間にか空き家になり、埃っぽそうな外観を日に照らしてらんらんと見せつけている。家の前の車道は以前よりもずっと罅や隆起が多く、自動車で走ると車体ごと振動した。
 玄関のインターフォンを押す。返事はない。予定通りに到着したはずなのに、ドアが開くことはおろか両親の声が聞こえることもなかった。窓を覗こうとするが、カーテンが重々しく閉められて中のようすは分からない。マサルは不安になった。几帳面な父や母が息子の帰宅を忘れて出かけることなどあり得ないし、仮に外出中だとしても何らかの連絡をよこすはずだ。にもかかわらず音沙汰がないのは、不吉な出来事が彼の知らない場所で起こっていることの前触れにほかならないような気がした。
 そっとドアノブに手をかけると、わずかな力を入れただけで玄関は開いた。鍵はかかっていなかったらしい。だがこの展開もまた、彼の不信感を裏付けることになる。おそるおそる家内に入り、靴を脱ぐ。靴箱の周りに散乱した履き物には埃が積もっていた。彼の鼻は瞬時にカビの強烈なにおいを嗅ぎとった。鼻をつまみ周囲を見渡すと、およそ人な生活が直前まで行われていた家庭とは思えない空間が広がっている。窓は割れ、床は腐り、壁は崩れ、天井は落ちかかっている…。
 手に持った土産物を放り投げて、咄嗟に彼は中へと走って行った。もしかしたら両親はこのなかにいるかもしれないというわずかな可能性のために、彼は急いだ。何年も帰っていないのにもかかわらず、体は間取りを覚えている。迷いなくあらゆる部屋や押し入れを確認していくが、やはり人の気配はまったくなかった。
 息を切らしながらその場に座り込む。わけもわからない状況が彼を苛ませた。両親が見つからないこと以上に、実家が瞬時に廃屋へと変化していることの驚きが、全身を麻痺させる。着こなした服も、気づけば汚れ、少し動かなくなっただけで肩には大量の埃が積もっていた。それを振り払う気力もないまま、やっと彼は視線を正面へ向ける。そこには小さな窓があった。
 はじめ、金属の枠の内側で起こっていることは彼は理解ができなかった。いや、理解しようと色々考えて目の前の出来事へ対応させようとしたが、結局は何の意味もないことに気がついたに過ぎなかった。窓は屋内と屋外を繋げる唯一の通路だった。だが、屋内から見えるそれはいま、驚くほどの速さで「時間」が変化している。時計の秒針が回転するよりも数十倍も早く、風景は朝から夜へ、日が昇ると思えば日没はすぐにはじまり、雲の移動は川の流れよりも素早かった。トイレのなかで渦を描きながら流れる水のように、四角い窓の内側で世界は次々と年を重ねていく。目を覆い、発狂したくなるほどの恐怖に彼はかられ、大きく叫んだあと気を失った。

    -世界にまつわるひとつの断片-

 目を覚ましたのは気絶してからどれくらいのの「時間」が経ってからだろうか。もはや正確な「時間」などこの家のなかには存在しないかもしれないが、彼は少なくとも目覚める以前の姿のままでゆっくりと体を起こした。埃やカビはそのまま残っている。体を伸ばすと同時に空気中に舞う埃を大量に吸い込んでしまい、思わず咳き込む。立ち上がると、靴下に水気を吸って腐りかけた木材の触感がじわりと染み込んだ。気持ちの悪さに身震いしながら、すでに静止した窓の外側を覗こうと近づいていく。
 移ろいゆく景色はけっして形を留めようとはしない。だが無限の流転のなかで世界は必ず過去の痕跡をそこに残していた。それは地層のなかに、森のなかに、砂漠のなかに発見でき、人にとっては記憶でさえ過去をたたえた遺跡と言えた。彼の家はすでに見知らぬ廃墟と化しているものの、それでさえ過去の住環境の遺産は持続している。目を閉じて、あらゆる感覚を遮断しさえすればかつての生活をありありと想起することができた。
 同じように、外の世界にも彼の知る遺跡は必ず存在するはずだった。どんなに星々が巡り宇宙が回転しても、因果律という原則に従えば必ず過去は存在する。以前という時点がなければ、現在も以降もありえないからだ。彼は錆びた窓枠に手を触れて、外をまじまじと覗き込んだ。
 見えるのは、少年時代を過ごした街の夕暮れ時だった。彼が生きる時点ではすでに壊されているものが、視界の真下ではありありと現れている。あれだけの速度で空が変化していったのは、未来へと移動したのではなかった。むしろ家ごと過去へと遡ったんだと、彼は一瞬思った。
 そこへ現れたのは、黄色い帽子わ被り、ランドセルを背負った子供たちだった。真上から見下ろしているせいで、顔はよく見えない。かれらは家の玄関の前で立ち止まると、一斉に石を投げはじめた。そのうちのひとつが窓に当たり、大きな音を鳴らしてガラスが割れる。
 そのとき、嫌な推測がマサルの頭をよぎった。そんな、一体、なぜ、どうして…。混乱したままさらにかれらを見てやろうと窓に乗り出すと、再び投石がはじまった。今度は額に思い切り当たる。血を噴き出しながら後ろに倒れ込むが、直前に視認することはできた。そう、あれは人間ではない…。腕も足も、毛が隙間なく生えて、顎は突き出て、口から出た赤い舌を旗のように振っている…。あれは、そう…。犬だ…!!しかも、タロウだ!!予想が確信となり、不安は絶望となり、傷は瞬時に痛みへと変換された。マサルはいまや、かつて自らが投石したゴミ屋敷の主人と成り果て、獣のような鳴き声をあげて叫んでいた。
 そんな彼を嘲笑うように、犬たちは馬鹿の一つ覚えのように呪詛を唱えている。
「タナナ…タナナ…タナナ……」

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