(エッセイ)「じぶん」のこと

「俺」と言ったことがない。

小学校に上がる少し前から、「俺」という一人称を使うのが嫌だった。当時、周りの男友達は少しずつ「(本名)くん」とかから徐々に「俺」と自身を名乗りはじめ、純粋な子供からガキンチョらしいガキンチョへと成長?していた。当然その一人称鞍替えの波に押されていたし心も体も男だから、自然にみんなと一緒に「俺」と名乗るはずだった。

けれど結局、「俺」という一人称を使う気にはなれなかった。

理由は単純だ。あの頃、急に「俺」と言いはじめた男友達はほとんど、例外なく苦手なタイプだったからだ。そいつらはどこへ行くのも強気なリーダーを気取っていて、馴れ馴れしくて、口が悪かった。だからそいつらと一緒に「俺」と言うのが嫌だった。こういう強者への卑屈な視線みたいなものは今でもある。

そしてそういう男友達からいったん目線を変えてほかの男友達や女友達のほうを見ると、「僕」や「私」「うち」なんて言いはじめる人もいた。

けど、それすら言えなかった。

「私」「うち」は基本的に女の子が使っていたから、男が使うことには羞恥心がある。そしてなにより、そのころは男性であることに強い誇りがあった。この場合の男性とは逞しく健康的で、つまり強さそのものだ。だから「俺」への卑屈さも、実は嫉妬の裏返しでもあった。当然それとは真逆の、ナヨナヨしてへりくだった「僕」なんてのも、言えるはずがない。

こうして複数あった一人称の選択肢すべてを捨てて、いままで生きてきた。実生活に影響はあるかと訊かれたら、正直にそうだと返すしかない。この文章そのものも(敢えてそうしてるが)一人称をまったく使っていないが、たとえば2人の友達と昨日の出来事について話しているとしよう。こうなる。
友達A「昨日のイッテQ観た?」
友達B「お祭り男面白かったね~」
(^^)  「けどアレさ、途中でお腹痛くなっちゃったんだよね」
友達A「誰が?」
('_') 「え?」
友達B「だから誰がお腹壊したの?」
((+_+))「…………」
これは極端な例だが、似たような場面はいままでたくさんあった。一人称を使わずに読書感想文を書くと考えれば、その苦労は読んでいる人たちにも分かると思う。もちろん対策は考えた。「誰が?」と訊かれたら「こっち」と言う。目上の人や改まった場合にかぎって「僕」と言う(それはひとつのマナーとして浸透していたし、能動的に「僕」と言っているわけではないと納得できたから)。さらに文章中にかぎって「僕」と書く。こうしたルールに則れば、かろうじて会話もスムーズに行うことができた。

しかし問題はこれで終わるはずがない。

高校に入学したころ、周囲と比べ極端に自己主張ができないことに気が付いた。「こうしたい」「こう思う」を言えない。思っていることも、いまいる場所も伝えられない。ごく日常的な会話でも、自分自身について思っていることを表明することができなくなってしまった。

だから会話でできる内容は次のふたつに限られる
・他の人/ものの話題
・一人称を使わなくても、明らかに自分自身のことであるとわかる話題
前者は分かりやすい。後者はたとえば友人と待ち合わせしたものの待ちぼうけを食らうと
友人「遅れてごめん!」
( `ー´)「待ちすぎてミイラになると思ったぞ!」
この場合、ミイラになるのが友人でないのは明らかなのだから、なんとか会話を成立させることができる。実はこのnoteの文章も同じ方法で書かれているから、思ったことを表現できている。

あの手この手で婉曲的に自己表現し続けることで、いままでかろうじて生きてこれた。正直、読書感想文も工夫を凝らせば一人称抜きで立派なものは完成させられるだろう。

しかしこうした工夫をしなければ、思ったことすら言えないというのも事実。なんとなく、いつからか外の世界と心の中が、厚い壁で分けられたような気になっていた。はっきりした外と、曖昧模糊な内側。口にできないから、思っていることが本当にそうなのか、ときおり疑ってしまう。やりたいことを諦めるということも、こうして学んでいった。たまに映画やテレビで「自分らしく生きよう!」とか「私は私!」とか言っているのを見かけるけど、あまり共感できない。なぜなら言いたいことを言えない以前に、何が本当の自分らしさなのかも分からないから。

でもやっぱり、伝えたいことはちゃんと伝えたい。

だから最近は、頑張って一人称を使うようにしている。「俺」「僕」「私」はまだ言えないが、「じぶん」とは言えている。それまでに色々とふざけて「ワシ」とか「ボ↓ク↑」とか言ってはいたものの、やはりふざけているからしっくりこない。今のところ、たまに「じぶん」と言っている。以前調べたら、これは一般の一人称としては認められていないそうだ。けれどたぶん、これからも「じぶん」だろう。

「じぶん」は過度に属性を強調することがない。自分らしさがこれっぽちも無くて、曖昧な自分自身のまま自分を表現できる。無個性なまま、無個性を主張できる。

自分らしさとは何かと考えたとき、それはよくわからない。あるとしたら、昔からある子供っぽいプライドの高さと卑屈な精神だろう。そしてこれは、たぶん生まれつきのものだ。もしあのとき「俺」と言っていたら、その卑屈さはずっと小さくなっていたと思う。素直に好きなことを言えるから。

正直、一人称を使って何をしたいのか、いまだにまったく分からない。ただ、ここに「じぶん」という人間が存在していて、生きていることを伝えたいとは、なんとなく思ってる。別に人と比べて不幸でも幸運でもなく、卑屈で、有象無象のうちのひとりである「じぶん」をどう表現したらいいのかは、これから少しずつ考えていくつもりだ。

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