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「清濁併せ呑む」という生き方

「清濁併せ呑む」という言葉を辞書(三省堂の新明解国語辞典)で調べると、「度量が大きくて、どんな人でも受け入れる」とあります。

この言葉における「清」は理想や正義を象徴し、「濁」は妥協や現実を意味します。これらを対立するものではなく、共存させる柔軟な考え方は、まさに理想と現実の間に橋を架ける生き方と言えるでしょう。

「清」のみを追い求めれば、理想に固執しすぎて現実を見失う危険があります。
一方で、「濁」に流されすぎれば、現実に妥協しすぎて目標を見失う恐れがあります。
そのため、この二つをバランスよく受け入れることが重要です。理想と現実の両方を受け入れ、調和させる姿勢こそが「清濁併せ呑む」の本質です。

しかし、この考え方が誤用されることもあります。たとえば、不正や悪事を見過ごしたり、曖昧な態度で問題を先送りにしたりする場合に、「清濁併せ呑む」という言葉が都合よく使われることがあります。その結果、社会的な問題や対立が深まる危険性も否めません。

近年、「忖度」という言葉が本来の意味から離れ、否定的な場面で使われがちであるように、「清濁併せ呑む」という言葉も、本来の価値が損なわれてしまうのは避けたいところです。

この言葉は、すべての人が清らかさと濁りを併せ持つ存在であることを認め、他者を理解しようとする努力そのものを指します。
どんな人にも清らかな部分と濁った部分があります。私たちはその両面を行き来しながら生きているのです。

「清濁併せ呑む」とは、理想を掲げながら現実に足をつけ、広い視野で人や社会を見つめる生き方を指す言葉だと考えます。
この言葉の本来の意味を大切にし、理想と現実を繋ぐ姿勢を忘れずにいたいものです。







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