私たちの自己責任論

 シリアの武装勢力から解放されて帰国したジャーナリストの安田純平さん。これに端を発して話題になっている「自己責任論」について考えています。批判的な意見として、たとえば、以下のような言葉がネットに散見されます。

・自分の判断で危険な地帯へ好んで行ったのだから、捕まろうとどうなろうと自己責任だ。
・解放に際して身代金が支払われた可能性がある。日本政府が動いた可能性もある。それなのに、感謝の言葉がない。彼の過去の言動を見れば批判されて当然だ。
・彼の命懸けのジャーナリズム精神とやらが、どれほどの真実を暴いたのか? ジャーナリストなのに大した真実を暴いていないではないか。
・現地の人たちのSNSの方がはるかに真実を伝えているはずだ。…云々。

 人は誰でも他人のことなら客観的に判断できるし、批判できるものです。私自身もそうです。
 今回の問題を自分の身に置き換えて考えてみました。すなわち、自己責任とは何なのか、自己責任という言葉の何と危ういことか。

 私は地震大国と呼ばれる日本という国に住んでいます。
 30年以内に70〜80%の確率で発生すると言われている南海トラフ地震、同じく将来確実に来ることがわかっている首都直下型地震、それらの危険性を知りながら、それでもこの国の首都圏に住み続けています。
 地震だけではありません。原発の安全神話の崩壊、台風・豪雨などの自然災害、その他2020年の東京オリンピックに向けて予期せぬ事件・事故が発生するリスクの増す中、それでもなお、自分の判断で首都圏に居を構えています。

 もしもそのせいで命の危機に晒された時、他国から「自己責任だ」と言われたら、どうでしょうか。
 わざわざ自然災害の多い危険な国の首都圏に好き好んで暮らしているのだから、死にそうになっても自分で責任を取るべきだろう。他国の救援・支援や、公共の力など借りず、自己責任で何とかしろよ、と。

 いや、こんなふうに反論できるでしょう。

 あのジャーナリストと違って、私がこの国に暮らしているのは、この国で生まれたからだ。ここに国籍があり、ここに家があるからだ。ここでしかできない仕事があるからだ。わざわざ日本を離れて危険な異国の地に足を踏み入れて迷惑をかけたジャーナリストと一緒にされては困る。ただここに住んでいるだけなのに、自己責任などと言われる筋合いはない。そんな批判は断じて許されない、と。

 対して、こう反論されるかもしれません。

 誰にだって住む場所を変える自由はある。国籍を選ぶ自由もあるし、仕事を選ぶ自由もある。それなのに、何でわざわざ日本という国の、それもリスクの多そうな場所に暮らしているのか?
 あなたがその国でやらなければならない仕事というのは、本当にその場所でしかできないのか? もっと言うと、その仕事はあなた以外の他の人間にもできるのではないか? そもそも、あなたは今まで仕事を通してどれだけ世の中の役に立ってきたのか? あのジャーナリスト以上に世の中に貢献している、そう言い切れるだろうか?
 そんな危うい存在のあなたが、勝手にそこに住んで、勝手に災害に巻き込まれて、勝手に命の危険に陥ったとしたら、やはり自己責任以外の何ものでもないのではないか。
 あなたには、警察にも消防にも自衛隊にも、助けられる資格はない。他国の救援隊など、日本に向かう意味はない。何かあれば、責任は自分で取れ。自分の命は自分で守れ。

 いや、待て。私は命を助けられれば、きちんと感謝するだろう。命を救われておいて感謝の言葉も口にしないあのジャーナリストとは違う。過去の言動を吟味してもらえれば、私には助けられる資格があるはずだ。

 いやいや、待て待て。では、感謝する人間は助けられ、感謝しない人間は助けられるべきではないのか? それは、その人間の過去の言動だけで判断されるべきものなのか? 助けるべき命と、自己責任で切り捨てていい命、その線引きを、誰がどんな基準で決めるというのか?

 この国で生まれた人間と、そうでない人間。
 自ら仕事を選んだ人間と、やらされているだけの人間。
 批判されて当然の人間と、批判されるべきでない人間。

 みんなが一緒に暮らしているこの世界で、自己責任という言葉は、とてもあやふやで、危険なものですね。

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