ショートストーリー とろろそば
出汁と飲むとトロリとして、フワリと消える。
軽やかな飲みごたえのすりおろした山芋。
そばの香りにツルリとした飲み口を加えた山芋は、空を彩る雲のように出汁の海に漂っていた。
妻は付き合っている時から、俺自身を見ることはあまりなかったように思う。
結婚したら変わるかとも思ったがそのようなことはなく、むしろ目の前の俺にも興味がないようだった。
あまりにも生活スタイルの違う妻と俺は、すぐに喧嘩になった。
家事が苦手な妻。家事をしてほしい俺。
イタリアンが好きな妻。和食が好きな俺。
仕事から帰宅してから、まるで違う生活スタイルはイライラするばかり。
家に帰りたくなくなって、外に女を作るようになった。
たまに家に変えれば口が滑る。
「前の旦那も苦労しただろう」
そんなことを言ってしまったのだ。
妻の口から、一度目の結婚相手のことはあまり聞かされていなかったから、完全に俺の妄想である。
どんな人物像かも分からないまま口にし、何も言わない妻に、さらに一度目の結婚相手の悪口まで言い出した。
今思えば、ただの嫉妬と気を引きたいだけの行動だった。
そんな子供のような真似をして、妻に好かれるわけもなく、彼女は家から出ていった。
妻が一度目の結婚相手のことを喋らない理由に、本当は心当たりがあった。
付き合っているころ、自分には勿体ないほどの優しい人間だと、彼女が酔った時に聞いたことがある。
その点、自分は楽なのだそうだ。
好みもライフスタイルも何もかも合わないが、自分のために不貞を働く汚い部分が同じで楽だと言っていた。
コンビニで買ったとろろ蕎麦をビールで流し込んでいる最中に言われたのを、はっきり覚えている。
彼女も同じものを食べていたが、不満げに食べていた。
優しい男なら、彼女の好みのパスタでも買うのだろうか。
優しい男なら、聞き流して覚えていないようなことだったのだろうか。
離婚届を出しに行った帰り、そんなことを考えながら蕎麦屋でとろろ蕎麦を食っていた。
彼女らしき人影が男とイタリア料理店に入っていくのが見えた。
男は高級感のあるスーツを纏って、彼女も見たことない高そうな服に身を包んでいた。
大学が近く、大学生の集まりやすそうな店で、そんな服を着ていくなんてと鼻で笑う俺は、よれたスーツでとろろ蕎麦の汁を最後まで飲み干した。
会計をして外に出た。
一度だけあのイタリア料理店に目を向けると、奇跡的に彼女の姿が確認できた。
窓際に座っている彼女は、お洒落な雰囲気も相まって絵画のように美しく、雲の上のような存在に見えた。