ショートストーリー ローストビーフ

野生味の残る肉の香りと赤ワインの香りのするソースは、迷いもなく溶けて一つになった。

いつも売られているけれど、この時期になると、より特別感が増すローストビーフ。
クリスマスプレゼントみたいに、飾られて塊のまま冷蔵庫に鎮座している。
その姿は、出番待ちの舞台役者だ。
冷蔵庫の手前で、奥の味噌をちょっと邪魔するところなんて、舞台袖の新人役者そのもの。

出番をまだかまだかと待つ佇まいは、我が家の役者と同じだ。
可愛い私の女優は、家の中で元気に練習中だ。
金のガチョウに引っ張られる宿の娘役だ。

明日は、幼稚園のクリスマスのお遊戯会。
娘のクラスは、金のガチョウを演劇する。
大変だー。
という一言だけらしいけれど、アチコチに引っ付いたフリをしている。
予行練習はバッチリだ。

寝る時間の前になってもまだやっていたので、それこそ寝かしつけるのが"大変だ"った。
明日はママも見てるから。と言って、手を繋いで、やっと眠ってくれた。

明日のお遊戯会が終わったあとは、我が家もクリスマスパーティーだ。
娘の好きな物を振る舞うつもりだ。
明日の忙しさを思いながら、興奮を抑えて私も眠りつく。

翌朝は、太陽も出ないうちから娘に起こされた。
幼稚園に行かなくちゃと張り切っていた。
まだ寝ておいてほしいと思ったものの、私は私でクリスマスパーティーの準備があるので起こされたことを怒れなかった。

せめて夫だけでも寝ていて欲しいと、娘と寝室を出る。
娘のボルテージは上がる一方で、早く行くと攻めたてられる。
とはいえ、6時にもなっていない幼稚園なんて、連れて行けるわけもない。

娘の気を散らすためにも、料理の手伝いを頼む。
「宿の娘さんの作ったお料理は、きっと美味しいんだろうな〜」
そう言うと、面白いくらいの反応を示して駆け寄ってきた。

そうして、娘に手伝って貰いながらローストビーフのソースを作る。
味見のひとなめをして、娘と一緒に笑い合った。

起きてきた夫に、娘の送迎を頼むと娘は久しぶりの父親との水入らずに、興奮をぶり返した。
結果的にお遊戯会の開演時刻には、余裕で間に合った。
クリスマスパーティーの準備は、つつがなく終わった。
ローストビーフも、うちの冷蔵庫の中で食べられるのを待っている。

パイプ椅子に座って、幼稚園の舞台の上を見る。
今年入園してきた子たちは、娘よりも一回りも二回りも小さく、動きもたどたどしい。
それが、可愛らしく、すでに懐かしい。

娘のクラスの番が来て、隣にいる夫を突く。
ビデオの録画が出来ているか、チェックを怠らない。
詳しく思い出したくもないが、運動会の悲劇を繰り返すわけにはいかないからだ。

夫婦でダブルチェックをして、固唾を飲ん見守る。
緊張で、喉が渇く。
金のガチョウの話を楽しむ間なんて無く、町娘風の格好で出てきた娘に小さく手を振る。

連れ立って出てくる宿娘は三人。
娘の他に、娘と特に仲良くしてくれている子が二人、宿娘役だった。
娘もさぞ安心して演じているかと思ったが、そうでもなかった。
娘の顔がガチガチに強張っていた。

たくさんの人の目を初めて意識したのだろう。
頑張れと心でエールを送り、カメラを持つ手に力が入った。

宿の娘三人同時の大変だーの掛け声。
そのはずだが、娘はずっと固く口を閉ざしていた。

劇が終わってから家に帰るまで、娘は泣き通していた。
上手くできなかった悔しさと不甲斐なさを知った涙は、大きな水滴となって目からも鼻からも溢れ出ていた。

夫が慰めに、上手だったと言っても手を振払われるだけで、なんの役にもたたなかった。
泣き叫ぶ娘の声は、家の中を暗くする。
クリスマスパーティーの準備を初めるも、娘の心の傷は癒えないままだ。

どうしたものかと悩んでいると、閃いた顔の夫が冷蔵庫に駆け寄った。
そして、ローストビーフを手に取り、娘の名前を呼ぶ。
「助けてー助けてー」

父親の大きな声に驚いて、泣くことも忘れた娘は冷蔵庫の前にやってきた。
頬には、ソファの跡がクッキリついていて泣き叫んだ時間を物語っていた。
夫は娘に叫ぶ。
「手がローストビーフにくっついちゃったよー! 助けてー! パパを引っ張ってー!」

夫の奇行を不思議そうに見ていた娘も、動かない父親にだんだん焦りを感じてきたようだった。
夫の足に抱きついて引っ張るも足にへばりついく、コアラにしか見えなかった。

自分の力で取れないことを悟った娘は、泣きそうになりながら父親に訴えかけていた。
夫は、役者も顔負けの演技で
「もう一度、引っ張ってみよう! 今度はママも合わせて皆で、せーので引っ張るんだ」

夫の寸劇に私も巻き込まれたことに、一瞬動じてしまったが、娘がやる気満々で私にお願いをしてきた。
私は、仕方なく夫の肩を持って、力を入れるフリをする。

「せーの!」
夫の掛け声で後ろに少し仰け反った。

ジグルベルを歌い、娘と作ったソースをローストビーフにかける。
娘の作ったソースを褒めると、娘は得意げな顔をした。
その顔には、ソファの跡こそ薄っすら残っているが、涙は流れていなかった。

娘に感化された夫も、私へ得意げな顔を向ける。
確かに、娘に笑顔が戻ったのは夫のおかげだが、アレは金のガチョウではなく「大きなかぶ」だ。
夫の様子では、それは分かっていないようで、私にしてみればそれが面白くて、笑ってしまった。

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小早川 胡桃
沢山の記事の中から読んで頂いて光栄に思います! 資金は作家活動のための勉強(本など資料集め)の源とさせて頂きます。