透析患者だった父が胃がんと診断され、入院したり二度と退院できないと言われたり意外と退院したり在宅介護した話。

https://note.com/kobashirikakeru/n/n1ffbaa1981fe
これの続きみたいなもの。

2019年9月末。
かねてより透析中の貧血に悩まされていた父が、ついに輸血が必要になるレベルの激しい貧血に襲われ、精密検査を受けることになった。

透析病院の医師に「頼むから検査に行ってくれ」と頼まれ、病院嫌いの父がようやくしぶしぶ大きな病院に検査に出向いたのだ。

10月30日と11月5日にメモのような日記を残していたので、これもnoteに上げておく。

●10月30日の日記
九月末の内視鏡検査によって、食道と胃の境目に大きな腫瘍が発見された。

「確定ではないですが、八割の確率で癌だと思います」

どうやら食道の腫瘍から出血して、貧血を起こしているようだ。
食道から出た血は胃液で消化されて大腸に行くので、便の色は「真っ黒」というようなことにはならないらしい。
ある日、父が「なんか夜中に鼻血が出た」と言ったことがあった。
思えばこれは鼻血ではなく、食道からの出血が鼻から出ただけだったのかもしれない。

「腫瘍専門の医師がいる病院で検査したほうがいいです」

そういうわけで、十月に改めて、別の病院で検査をすることになった。
鎮静剤を入れての胃カメラ。その後日大腸検査。
さらに後日PET検査。

大腸検査は特に大変だった。
なにせひたすら下剤を飲み続けて、便が透明になるまで病院でトイレにかよい続けなければならない。
下剤は液体でとても不味い。
「痛くもない腹を探られてる」
そんな風に笑っていた。
そして実際、大腸への検査は問題なかった。

この時点で私たちは「癌かもとか騒いでるけど、ただの胃潰瘍とかで、ちょっと手術すれば治るんではないのか」そんな風に思っていた。

10月16日、検査結果を聞きに行く。
PET検査の結果、脳と前立腺への転移が確認された。
胃と食道の癌はリンパにも食い込んでいる。

「脳に転移している時点でステージ4。この状態だと手術はできない」と言われる。
脳の腫瘍は前立腺癌から転移したものだろうとのこと。

「左半身に、何か違和感があると思ってたんですけど」

父が苦笑い交じりに言った。
父は病院嫌いの検査嫌い。
「病院にいったら病気にされる」というようなことが口癖の人だった。
最近六十歳になったばかり。
igA腎症による腎不全で人工透析をしている。

「透析もしているのだし、不調があれば病院が気づいてくれるだろう」

そんな風に思っていたけれど、気づいたときには全身に転移していたという状況だ。
癌は「癌かもしれない」と思って検査しなければ見つからないものらしい。

「命に係わる場所から優先的に治療をする。脳腫瘍から先にどうにかしないと」

脳腫瘍は一つだけ。
放射線で散らす方向で決まったようだ。
その間食道と前立腺の癌が放置されるのは不安だなと思う。

脳腫瘍が判明してから二週間が経過した。
影響は日に日に強くなっていて、右の前頭葉にある腫瘍は父の左半身をむしばんでいる。
歩いていると左側に力が入らないため踏ん張りがきかず、左側に傾いていく。
体の左半分だけがひどくむくみ、爪の色は土気色から紫だ。

更に肉離れを起こしているので、かねてより用意だけはしてあった車いすを導入する。
やはり左側に力が入らないため、自力で車いすをこぐことは難しい。

28日に「脳圧を下げるいい薬だから」と言って薬が処方された。
イソバイトシロップ。
翌朝、今までにないほどパンパンにむくんでしまう。

腎臓は血液をろ過してきれいにする機能のある臓器だ。
それがほとんど機能していない状態が腎不全。
腎臓にかわって血液をろ過するのが透析だ。

透析病院で「病院でイソバイトシロップが処方された」と言うと「透析患者にこの薬はだめなんだ」と言われる。
ネットで調べる。
2014年版の腎臓機能低下患者への薬剤投与量一覧を見つける。
http://jsnp.kenkyuukai.jp/images/sys%5Cinformation%5C20140803222509-A4520DD9CE5CDD4378AF210A3016BF852D2EB9AFA805057CE9D389E93294B2B0.pdf

イソバイトシロップの記述があった。
「腎不全患者の投与に言及した報告はない。利尿作用による腎機能悪化に要注意」
禁忌と言うほどの薬剤ではらしい。

父の体には合わなかったという事なんだろうか。
しかし透析病院の先生が知っているほどの薬なら、処方するときに一言説明があってもよかったのじゃないだろうか。
薬剤師も何も言ってはくれなかった。
急に不安になる。
もっといろいろ質問するべきかもしれないと思った。
そしてなんらかの形で記録をつけ始めようと決めた。

今日(10月30日)から放射線治療が始まる。
全3回の予定だという。
脳腫瘍が小さくて、一か所だけだからなのだろうか。
麻痺が少しでもマシになればいいと思う。

●11月5日の日記
11月4日
父が吐血したので救急車を呼んだ。
父は胃と食道の境目にある、食道胃接合部癌なる病気である。
同時に透析患者でもある。

ここ最近はひどい貧血が続いていて、透析病院で輸血をうけているという状況だった。
ついに貧血は限界という段階になり、透析病院から「このまま入院したほうがいい」とすすめられるも、どうしてもいやだといって帰宅してきたのが11月2日。
入院予定日を4日後に控えた日の事だった。

「帰宅してもいいですが、次にどこかから出血したら必ず救急車を呼んでください」

そんな指示を受けての帰宅だった。
そして四日の朝九時に吐血したのである。
眠っていた私は「救急車よんで!」という母の叫びで飛び起きた。
にぎりしめて寝ていたスマホで即座に119にダイヤルし、そのまま入院になることを想定してキャリーバックにあれこれと荷物を詰め込んだ。
おりよく三連休の月曜日で、兄に母と共に父に付き添うように頼んで病院に送り出す。
私は一人家にのこり、まだあれこれとキャリーバックに荷物を詰めていた。
兄からライン。
「母の財布とスマホも持ってきてくれ」
母は父の入院に必要なすべての荷物一式を持っていく代わりに、自分の荷物をすべて忘れていっていた。

キャリーバックを引きずって病院に行くと、なにせ三連休なので外来病棟が閉まっている。
「あちゃー」と思って外来の玄関の前で立ち尽くしていると、コーヒーを片手に病院の職員と思しき紳士が歩いてきて「そこが開いているので、中を通ると緊急外来に行きやすいですよ」と教えてくれた。

キャリーバックを引きずって緊急外来へ。
軽く迷ってから、兄と母がぼんやりと座っているのを発見する。
「あの時入院しておけばよかったって反省してたよ」
母と兄は苦笑い。困った父だなと笑った。

「入院の部屋が用意できたので」

看護師さんに案内され、ストレッチャーに乗せられた父とともに病室へ。
少し贅沢して一日一万円ちょっとかかる特別室を用意してもらってある。
最初はただの「個室」で、付き添いの家族が三人あつまると少し狭い。壁紙も剥がれていて、どうも雰囲気が暗く感じる。

「ただでさえ気落ちしてるのに、ここに入院させるのはかわいそうだなぁ」

そんな風に思った。
何せ父は病院が大嫌いなのだから、少しでも明るい気分で過ごさせてやりたいと思う。

兄とコンビニに出向いて、水やらボックスティッシュなどを買ってきた。
ついでに院内のカフェで遅めの朝食を取る。私はパスタで兄はパンケーキ。
病室に戻って父に水を飲ませるが、左半身が動かないのでもう自力で水は飲めない。ペットボトルから飲むのもなんなので、病院の売店でストロー付きのコップを買った。とても役に立つ。
内視鏡の先生がやってくる。

「貧血がひどいので輸血をします。緊急性はありませんが、どこから出血しているか見るために胃カメラをします。癌からの出血だった場合は触ることができないので、輸血をしながら治療方針を固めます」

この説明に父は不満。

「腫瘍から出血してるのは分かり切ってるのに、なんで胃カメラを飲まなきゃいけないんだ」

確認作業は必要だからとなだめすかすも、私も「絶対に癌からの出血だし、苦しいのに無駄に胃カメラ飲みたくないよな」と思っていた。とはいえ確認しなければならない病院側の事情も分かる。

結局胃カメラのためにストレッチャーで運ばれていった父は、戻ってきたときは鎮静剤でぐっすりだった。
一瞬意識を取り戻し「胃カメラは? 終わったの?」ときょとんとしている。苦しい胃カメラじゃなかったようでほっとした。

ちなみに父が胃カメラを飲んでいる間に、入院部屋の移動があった。
ワンランク上の特別室へ。この部屋には来客用のソファーがあるし、湯船もあるし窓からは川が見える。
壁紙がはがれていたりもしないし、明るくていい部屋だ。

一旦父を兄に任せて、母を昼食に連れ出す。
といっても院内のカフェだけど。
母はチーズトースト。朝にカフェでパスタを食ったくせに、私もついでにホットドックを食べた。デブが加速する。

部屋に戻ると、父はぐーぐーといびきをかいている。
入院の手続きでもするかと、ナースステーションへ。

「もう帰られますか?」
「まだいますけど、手続きだけしちゃおうかなと」
「手続きは明日でも大丈夫です。先生から説明があるので談話室へ」

母と二人で個室になっている談話室に向かった。
看護師さんが「息子さんはよろしいですか?」と聞いてくる。
息子さんも聞いた方がいい話をするらしい。
私は病室にもどって兄を呼ぶ。
三人で担当医の話を聞くことに。

「ステージⅣで、そのなかでも重い方。リンパにも転移している。脳にも転移している」

この説明は前にも聞いていた。

「前立腺にも転移してるんですよね?」
これは私の質問。
「こちらは命に直接関係ないので治療はしません」
これは医師の回答。

 以前癌の説明を受けたとき、隣に父がいたので聞けなかった質問がある。
 今その質問をすべきだと思った。

「治る可能性ってあるんでしょうか」
「可能性はありません。ゼロです」

 ああそうですか。
 実はそうだとは思ってました。
 だって治そうとするにしてはあまりにも悠長だったものね。一刻も早く治療しなければという感じじゃなかったものね。
 わかってたほんとはわかってた。

「退院できる可能性は?」
「難しいでしょう」
「家に帰りたいと父が言ったら?」
「絶対にやめた方がいい。本当に悲惨なことになります」

父は体重百キロの巨漢で今やすっかり半身不随。
転んだら私と母ではベッドや車いすに戻せない。
くわえて人工透析患者で、週に三日透析をしなければ生きられない。
自宅透析マシンを導入するか? などなど考えた。どうも父を病院で死なせるのは忍びないという気持ちが強い。

ところでQOLという言葉がある。
クオリティ・オブ・ライフ。生活の質だ。
苦痛がないか、心が辛くはないか、そういうことに関する言葉だ。

自宅に戻るとQOLが劇的に下がると医者は言う。
そうかもしれない。なにせ設備も人手もないのだから。
でも父は自宅が大好きなのだ。
たぶん父はほとんど覚悟していて、入院したらもう自宅に戻れないと思っていたのかもしれない。だからあんなに入院を嫌がったのかもしれない。

「長くて一年ですが、二~三週間かもしれません。透析中ですので急変の可能性もありますし、貧血がひどいので失血でなくなることもあります」

一年。
長くて一年。
そうかそうか。

覚悟はしていた。
うそ。
覚悟しているふりをしてた。

一年かもなとは思ってた。でも実際に医者に「一年」と言われると「本当に余命一年とはあんまりだ」って思う。しかも長くて一年。「二~三週間」かもしれない。正直今週中に死ぬかもしれない。
そういう説明をされるかもって覚悟はしていたはずなのに、普通にずしんときてしまう。
実際に余命を宣告されてしまうと、本人には言えないものだなと思った。

「お父さんあと二週間で死ぬかもしれないし、退院はまず不可能だってさ」って、どんな顔して言えるというのか。
父は今も治る気でいるし、治す気でいるというのに。

父が吐血する前日、役所にいって介護保険についてあれこれと聞いてきたところだった。
「癌は対象になるけど、治らないという医師の意見書が必要」といわれて、すごすごと帰ってきたところだった。
なにせ「治らないとは限らないからな」と、その段階では私も母も思っていたのだ。
もしかしたら治るのかも。
それでけろっと帰ってきちゃうのかも。
だって余命宣告とかされてないし。
そんな風に思ってた。

でもただ「余命宣告されてないだけ」だった。

手すりを付けるリフォームを発注したばかりだった。
ベッドも介護ベッドを発注したところだった。
普通の椅子だとずり落ちてしまうから、電動リクライニングソファも発注したところだった。

「退院したら家の環境はいい感じになってるから」

半身不随で苦しむ父にそんな風に言って入院の日を待っていたのに、父は吐血で緊急入院し、二度と退院できないのだ。

とはいえ、まだ抗がん剤治療も始まっていない段階である。
だから奇跡的に抗がん剤がよくきいて、なんか普通に退院できてしまうかもしれない。
退院したところで透析患者ではあるので、普通に透析には通わなきゃならないのだけど。
多分車いすはずっと必要なのだけど。
もう自転車で通院なんてできないのだろうけど。

「放射線で脳腫瘍がなくなれば、麻痺もなくなって歩けるようになって、入院じゃなくて通院で対応できるはず」

まだそんな希望が少しある。
何せ父は自宅が本当に大好きなのだ。東京から熊本に引っ越してくるときに、大切にしていた古いスピーカーなんかをあらかた処分した。カメラも。

「引っ越したら小さくて新しくて音がいいやつを買えばいい」

そういうわけで、三十万円ほどかけて今のオーディオ環境を整えた。父はJBLのスピーカーでカーペーンターズのレコードなどを聞くのが好きだった。
「最近は電子音源もすごいな」とかいって、ノートPCをスピーカーに繋いで楽しんでいた。

 父と兄を病室に残し、私が持っていきそこなった様々なものを追加で病院に持ち込むために、私と母は一度自宅に戻った。
 帰りのタクシーでも涙が流れた。
 何で泣いてるのか分からないけど涙が流れた。

 家に帰ってきて大決壊。
 私も母も泣いてしまう。母など声を上げてわんわんとなく。
 ばかやろうばかやろう。本当に何もかもばかやろう。

 一年前に父が胃カメラを飲んでいたらこんなことにはならなかったのか?
 父が年に一回人間ドックに行くような人なら早期発見できたのか?
 透析になってあと五年生きられるかどうかって話をしてたのに、どうしてそのうえ癌になってリンパに脳に転移して余命は一年もなくて退院もできなくてなんて話になるんだ。
 血液検査はしてたんじゃないのか。
 どうして誰も見つけてくれなかった気づいてくれなかった。
 でもわかってる誰に何を言われてもどんなに具合が悪くても「病院なんて行っても何もわかんねーよ」と言い張ってかたくなに検査を受けなかった父が悪い。

 病気は見つけようとしなければ見つからない。
 治そうとしなければ治らない。
 見つけようとしても見逃すし、治そうとしても治らないのに、そのどちらもしなかったらどうにもならない。分かってるけどそれでも「なんでだよ」って思ってしまう。

 荷物をまとめた母だけを病院に送り出し、私はぼんやりと何もやる気が起きない時間を過ごした。
 仕事の締め切りが迫ってる。ぼんやりしてる暇はどこにもない。
 そうこうするうちに兄が帰宅して、なんとなく取り留めのないことを話した。

「退院できないって言うけど、リフォームどうしようか。介護ベッドは?」
これは私の問い。
「キャンセルしてもいんじゃないか?」
これは兄の答え。

 私は悩んだ。

「でも手すりはどうせいつか必要になるし、介護ベッドもあって困るもんじゃない。母も年をとるのだし」

 そういうわけで、結局父のために手配したあれこれはキャンセルしないことにした。
 だってこれをキャンセルしちゃったら「父は退院できずに死ぬ」という現実を、不動の未来として受け入れたことになる。
 それはさすがに嫌すぎる。

 うだうだしていると母から連絡。
「吸入の薬を持ってきてほしい。発作が起きそうで怖いって」
 父は喘息もわずらっている。「なんで入院してるのに、家から薬をもっていく必要があるんだ?」と思いつつも、せっかくだから再びあれこれ荷物を詰めて二度目の病院へ。
 寝不足でふらふらの兄も「ついでに晩飯でも」とかいいながらついてきた。二時間しか寝てないのだから寝てればいいのに。

 父に薬を届ける。ちょうど輸血が終わるところだけど、刺し方が今一つ下手だった針から最後の最後に血が漏れた。
 輸血用の血は絵の具みたいに真っ赤で偽物のよう。
 あふれた血を慌ててタオルで受け止めてナースコール。枕カバーも汚したので、回収して荷物に詰めた。

 着替えを手伝って院内Wi-Fiを設定したスマホを設置して(でも体がマヒしてるからほとんど操作できない気もするけど)、明日また来るからねといって病室を引き上げた。
 父は現在飲食禁止の身の上。飲み食いすると摩擦で出血するからだと思う。入院の直前にはカレーヌードルとか食べてましたけども。
 明日はお茶くらい飲めるだろうか。

 兄と母と私で、帰りにラーメンをすすった。
 ジェラートを食べながら帰った。
 猫が何も知らずにぼんやりと待っている。

 これが入院一日目。
 面会時間は午後体から、明日は午前中にインフルエンザの予防接種をしようと思う。

――――――――

3月15日現在、振り返ると入院生活はなかなか過酷だった。
そもそも入院に至るまでの通院の時点で相当過酷だった。
父はどんどん動けなくなるので、普通のタクシーでの通院が難しくなっていった。
慌てふためく母に「介護タクシーなら車椅子で通院できるよ」ということを話した。

介護タクシーは「とてもお金がかかる」という印象がある。
けど実際のところ、通常のタクシー料金に+数百円という感じだ。ただしストレッチャーやら車椅子をレンタルすると+2000円とかになる。
自前で車椅子を持っているなら気軽に利用できる金額だと私は思う。

入院にしても、父が通院を希望していたのもあって入院日はなかなか決まらなかった。「特別室なら開いてるから入れるかも?」というような話を聞いた気がするけど、記憶違いかもしれない。
ともかく「このまま家においては置けない」と思って、病院に入院日を速めてくれと連絡したのを覚えている。その日のうちに「じゃあ六日で」と折り返しがあった。

結局父は11月4日から11月22日まで入院し、その間食事はほぼできなかった。食事が解禁になったところで食べられなかった。
吐き気で水が飲めていないので、点滴で水分を入れることになったが、点滴の位置が悪くて「麻痺していない方の腕も曲げられない」という状態になっていた。

針を刺す場所を変えてほしいと頼むも、脱水と貧血でべこべこになっているのだろう父の血管は「他にさせる場所がないので」ということになってしまった。
両腕が動かせず、父は「こんなのは拷問だ」と癇癪を起す。

早い段階で、胸にCVポートという、点滴用の器機を手術で入れ込むことになった。
これは抗がん剤の投与にも使えるもので、不要になったら取り外せる。
ここから水を点滴できるようになれば、腕の点滴ははずしてよいことになった。

「OS1という経口補水液を一日二本飲めるなら、針は刺しっぱなしでも点滴だけは取り外せる」

そういうわけでOS1が導入されたが、なにせこれが美味しくない。
点滴を外すためだと思って父も最初は頑張っていたが、脳腫瘍のせいで脳圧が上がってくると意識レベルも低下し、水を飲むのがますます難しくなる。

「普通の味がするものが欲しい」

かなり切実な願いだ。看護師に「すりおろした林檎の汁とかならいいですか」と確認すると、OKが出た。
私はこの時シナリオの仕事で締切が厳しく、キリキリとしながら仕事をしていたが、母からのメールで仕事を切り上げ、リンゴを買って病院に向かった。
すりおろした林檎のしぼり汁を一口飲むと、父は「これなら飲める」と喜んでいた。

ほかにも市販のリンゴジュースなどを試すが、やはり量が飲めない。
脳腫瘍の影響で感情の抑制がききにくくなっているため、何かと声を荒らげるが、もともとそういう性格だった気もするのであまり気にならない。
Amazonミュージックでお気に入りの曲を流してあげると、涙を流して喜んだ。父が泣くをの初めて見た。いやウソ。二回目か三回目くらいかも。

麻痺が進んで自力でトイレに行けなくなるが、プライドが高い父はオムツを心から憎んでいる。
特別室にはユニットバスがあるが、半身麻痺の人間が自力で入れる構造ではないし、車椅子では入れない。

結局、病室を出て車椅子専用のトイレに行く必要がある。
重たい父を車椅子に移譲させられる看護師さんは、入院中で二人しかいなかった。
一人はリハビリ担当の男性で、一人はベテランの女性。この女性看護師さんには本当に特に助けられた。
あとは五人六人と人が集まってきて、どうにかして父を車椅子に移譲させようと奮闘するというようなありさまだった。
それで「看護師が大変だからオムツをしてくれ」ということになった。
病院を責めることはできないが、「移譲させる技術がある人はいるのに」と思わずにはいられなかったし、移譲のための介護設備がないのも「どうして?」と思ってしまう。

脳の機能が低下すると、時間の失認がおこる。
自分がどれだけの時間、そこでそうしているのか分からなくなる。
だから「お父さん、立ち上がって車椅子に乗るよ」と声をかけても、十分間フリーズし、立ち上がろうとしない。
そしてふと、自分のタイミングで立ち上がろうとするので周りが慌てる。
周りが「あ!」っと驚いた声を上げると、それに驚いた父はまた座ってしまう。
そういうふうにごたついているときに、医師が様子を見にやってきた。

「立ち上がれないんじゃオムツするしかないですよ」

医師は突き放すように言った。

「その状態じゃ退院も無理でしょう」

これに父は激怒する。
激怒というより、激しく傷ついたと言った方がいいかもしれない。

「変な事ばかり言わないでください。立てるんですから、治るんですから」

父はそう言って立ち上がった。
怒りの力で立って、ベッドから車椅子に移動する。

「いや治らないですよ。進行を遅らせるだけですから」

我々が言えずにいた、言うタイミングを探っていた、そういうたぐいのことを、こともなげに言い捨てて医師は病室を出て行った。
私はひどく悔しかった。私以外の誰かが父に現実を伝えたことに少しホッとしてしまった自分に失望していた。

病室には暗い空気が満ちていた。
父はそれでも「あいつは何もわかってない。絶対に治す」と息巻いている。あれは家族を気遣っての事だったのだろうか。それとも心からの言葉だったんだろうか。

いよいよ父の意識レベルが低下して、自力で起き上がることも難しくなっていた。
起き上がっても、誰かが支えていないとすぐに倒れてしまう。
ある日母が病院に行くと、父は夜の間にオシメをされ、尿瓶がそばに置いてあった。

「トイレに連れて行ってくれれば自分でできるのに」

父は悔しそうだった。
そんな言葉を最後に意識を失い、リフォーム業者が手すりを取り付ける作業を見守っていた私が病院に呼び出された。

「お父さん、ずっと寝てて目を覚まさないの」

母は悲しそうに言う。
父は虚ろな目でどこかを見ていたが、話しかければ反応があるように見えた。

「お父さん、アイスカフェラテ飲む? セブンの」
「カフェラテ飲む」

父が目を覚ましたものだから、母はびっくりして私を見た。
父はセブンのカフェラテがお気に入りなのだけど、まさかこれで本当に釣れるとは。
アイスカフェラテを買って病室に戻る。
起き上がらせると、少しカフェラテを飲んだ。

胃の出血が止まらず、貧血が本当に危険なレベルだったので、病院の偉い人らしき誰かの指示により、脳と胃の放射線を同時進行でやることになった。
前は「脳が終わってから胃」と聞いていたけれど、このおかげで生き延びたような気がしている。あくまで気がしているだけだけど。

「危なく最後の言葉が“トイレに連れて行ってくれればできるのに”になるとこだった」

冗談みたいだけど、本当にあぶないところだったと思う。
あのまま死なれては悔いが残った。

さていよいよ「どうにかして親父を家に連れて帰ってやらねばな」という気持ちが強くなった。
放射線治療も終わり、次は抗がん剤治療。
一度目の投薬をして、次からは通院ということができる。

しかし「ホスピスに入院したほうがいい」というのが医師からのすすめだ。
勧められたホスピスに見学にも行ったが、なるほど「死を待つ場所」としてここは良い病院かもしれない。家族と過ごせる病室もあるし。
私は手すりのついた家と、父のために作った介護用の部屋を見て考える。

「本当に自宅で父の介護ができるのか?」

慎重派の兄は難色を示す。
「いけるのか? マジでいけるのか?」
楽観主義の私も首をかしげる。
「うーん……まあ、二日で病院にトンボかえりすることになったとしても……」
現実主義の兄は問う。
「それって退院する意味があるのか? 無駄に全員がつらいだけじゃないのか?」
理想主義の私は答える。
「一日でも二日でも、とにかく一度家に帰ってこられたら父は幸せなのではないか」

そういうわけで、自宅療養の準備を進めることにした。
ステロイドの投与を始めたおかげで、父の脳圧は下がりつつあり、意識レベルも少し持ち直しはじめていた。

自宅介護にあたり、たくさんの人のアドバイスをもらった。
大きな病院には相談員というのがいる。

「本当に大変ですよ。みなさん後悔なさいます」

再三念を押された。
私もなんども最悪の場合をシミュレーションした。
でも挑戦もしないで「うちでは無理だ」と言うほど無理だとは思えなかった。

家の中で車椅子の移動ができるか? できるできる。
常に父の状態を見守れるか? 和室が見守りにピッタリだ。
車椅子でトイレに行けるか? 難しいけどポータブルトイレを買おう。
車椅子と介護ベッドの移譲ができるか? つるべえとかいう便利なマシンあるしな。

よしやってみよう。
たぶんいける。
ていうか、入院してる父のために毎日病院に行く方が絶対きつい。父が家にいてくれれば私も仕事の傍らで父の面倒をみられるはずだし、母ももっと休めるはずだ。兄の力も借りやすい。

ケアマネージャーを決め、在宅を専門でやっている医師も紹介してもらった。
定期的に透析にかようための介護タクシーとも契約をした。

なおこの介護タクシーは爆裂にお金がかかった。
一日往復で八千円。それが週に三回。ストレッチャーを借りてるからこの値段になる。一か月で十万円近くになる。

しかしケアマネさんに話をしたら「もっと安いところがありますよ」と、別のタクシー会社を紹介してもらえた。これで一日四千円程度になった。
父が体を起こしていられるようになり、ストレッチャーが不要になると、レンタル用品がいらなくなりさらに値段が下がったが、このせいでややケアマネさんと介護タクシーが揉めたらしい。
そりゃいきなり契約の料金が下がったら揉めるよね。
そういうわけで、介護タクシーの会社はさらにもう一度替えることになった。

「そのうち契約できる会社なくなるんじゃなかろうか」

そんな風に思ったりもした。
いっそ自分で介護タクシーの会社を作ろうかと思ったほどだ。

退院して数日は、予言された通りの大変さだった。
父の意識レベルは相変わらず低く、時間の感覚を失い、自力で立ち上がる力はあっても立ち上がる気力が出ない。
それでも、一人でベッドにいることを嫌がった。
ベッドで食事をすることも嫌がった。泣いて嫌がった。
食卓をベッドサイドに持ってきて、父を囲んで食べたとしても「こんな扱いはされたくない」と怒った。
だから食卓につれて行こうとすると、これもなかなか大騒ぎだ。

「お父さん、立ち上がるよ」
「そうなの?」
「お父さん、立って」
「え? もう立つの?」
「お父さん、立てる?」
「なんだか疲れてきた」
「そりゃお父さん、もう三十分立ったり座ったりしてるからね」
「え?もうそんなに?」

こういう調子だ。
父はしょんぼりとして「わがまま言わないよ、弱い立場だから」と言う。
結局父がベッドでほとんど食べられない食事をし、私がさめた味噌汁をすすって「飲みやすい温度になったわ」と言うと、兄が「おまえとんでもないポジティブだな」と笑った。

それでも、どうにかしてお気に入りのリクライニングチェアに移動できることもあった。
一度リクライニングチェアに座ったら最後、ベッドに戻るのはまた大変な大仕事だが、だからと言って父をベッドに縛り付けておく気はなかった。
ここは病院ではないのだし、幸いなことに私は勤め人ではなく作家だ。父が癌になった時点で仕事の多くは断ったし、編集部にも「ちょっと書けない状態です」と連絡を入れてある。

父が一時間車椅子にうつれなくても、「よしよしがんばれ」と応援することに対して抵抗はなかった。
「歩く練習がしたい」といえば、手すりに麻ひもを巻いて滑り止めを作り、後ろで車椅子を支えて「さあ立つんだ」と励ました。

この時父の握力は幼稚園児みたいに低くて、自力で車椅子を操作できないし、手すりをまともに握ってもいられない。
病院で「立つ練習がしたい」と言えば、安全を考えて「もう少し簡単なリハビリからにしましょう」と言われていただろう。
でもここは家だ。好きにやればいい。
転んで足の骨でも折ったら大惨事だし、再入院になればもう退院はできないかもしれない。
それでも「やりたい」というなら、可能な限りの安全対策をとってやらせてあげるのが我が家の方針だった。

入院中、体調不良と意識障害のせいでまったくリハビリができなかった父だ。
でも父はずっとリハビリを従っていた。
「動かないと動けなくなる」そういう恐怖心と戦っていた。

しかし、心はどうあれ、半身麻痺はいまだにあり、動きは緩慢で時間の感覚はあやふやだ。
どうあってもトイレには間に合わないから、ポータブルトイレをレンタルした。
しかし太っている父は、これに座るとはまりこんでしまい、立ち上がることが容易ではない。
なので大型のポータブルトイレを購入することにした。
送風乾燥機能付きのデラックスなやつだ。

父は末期がん。
治らないという父の診断書がある。
そういう人には介護保険が出る。

介護保険を使ってポータブルトイレを安く買わせてもらえた。
納税していてよかったと心から思った瞬間だ。
レンタル・販売業者は迅速で、ケアマネさんも行動が早く、ポータブルトイレが欲しいと言うと、翌日には持ってきてくれた。「可能なら今日持っていく」というレベルの人々だった。そういう人たちのサポートがあったので乗り切れたと思う。

自力で起き上がれない父を常に見張り、水が飲みたくないかを三十分おきに確認し、起き上がろうともがく父を助け、トイレに行きたくなればポータブルトイレを用意して立ち上がるのを手伝う。

そんな風に数日が過ぎた。
「意外と穏やかな数日だな」
そんな風に思っていたある日の深夜、PCを操作していた私の横を父が横切っていった。

その後ろを母がヒヤヒヤとついて行く。
何が起こったのか分からなかった。
今朝まで自力で起き上がるのも難しかった父が、壁伝いによたよたと、手すりを掴みながらトイレに向かって歩いている。

そして自力でトイレに行った。

退院してから一週間後くらいだったと思う。
その日から、父はめきめきと回復していった。
意識レベルが回復し、当たり前のように自力でトイレに行けるようになった。
透析に行くために、スライダーを使ってストレッチャーに移譲していたのが、すっと立ち上がって自力で車椅子に座る。

「え? なに? このまま治るの?」

そんな風に思ったほどだ。
放射線の効果は時間差で出ることがあるという。
退院して数日、ようやく父の脳腫瘍が小さくなり、脳圧が下がったらしい。
それか、ステロイドの効果が出たか。

退院当日、お祝いに買ってきたケンタッキーだが、父はポテトを一本の半分しか食べられなかった。
それがもりもりと食事ができるようになった。ラーメンをすすり、ハンバーガーを食べ、鉄板焼きをたべ、小籠包や焼肉を食べに出かけることさえあった。
100メートル先のコンビニまで歩いて到達するというミッションすら成功させた。

本来、がん患者は死の間際までこのように、健常者とさして変わらぬ生活を送れるものだと、ネットの噂で聞いてはいたけど、なにせ十月に癌が確定してからがたがた体調が落ち込んだものだから、まさかこうも回復するとは想像もしていなかった。

「慌ててポータブルトイレ買う必要なかったのでは?」

そんな風に思ったけれど、使ったのがたとえ三日でも、それは尊厳を守るために必要だったように思う。
死の三日前、また動けなくなった父を少しでも安心させるアイテムにもなったしね。死が目前に迫った人にとって「少しでも安心できる」という気休めは重要な要素だと思う。

結局、父に残された時間は三か月だった。
「二度と退院できない」
そう言われていた父が、三か月も家で過ごせたのは、父の驚異的な精神力のたまものか、はたまた医療の恩恵か。

せっかく体調が持ち直したのに、抗がん剤をしないのはもったいないかもしれない。
そう思ったけれど、副作用は怖かった。
透析患者は仕える抗がん剤の選択肢も少なく、濃度も薄めるのだという。副作用は確実に出るのに、効果はどれほど期待できるのか分からない。そういうものに頼るのを厭って、「できるだけ普通の人のように過ごす」ことを目指した三か月だった。

「桜が咲いたら姫路城に旅行しよう」

そういう計画を立てて、父は車椅子で姫路をめぐるプランをうきうきと立てていた。
私がある日思い立ち、「明日雪まつり行ってくるわ」と北海道に旅立って、父の故郷などをめぐり、代理旅行として写真や動画をおくりまくったことがはずみになったらしい。

その計画を立てて二週間後の死だった。
父は最後には自力で姫路に行くことを諦めていたけれど、「あの北海道の時みたいにたくさん写真を送ってもれればいい」と言っていた。
だから最後まで、何かを楽しみにしている状態でいられたと思う。

在宅介護の意味はあったのか?
父を自宅で看取るために、時間と手間と費用をかける価値はあったか?
ホスピスに入院させる以上の意義はあったか?

もちろんあった。
父を自宅に連れて帰ったことを後悔したことは一度もない。

腹を立てたこともあるし、実のところケンカもあった。
意識レベルが回復すると、父はまったく傍若無人でわがままだ。家族が努力していても「こんな目に合わせるのか、拷問だ」と家族を責めるし、子供らの努力を踏みにじられて母は怒る。
父がかっとなって「死ねばいいんだろう」と言うこともあった。「ずっとベッドに寝てろっていうのか」と怒ることもあった。

私はそんな父に「周りをごらん」と言う。
「死ねばいいと思ってるなら、そもそも退院させてないし、リフォームして介護用の部屋を作って車椅子を買ったりしない」

父は感情的だけど馬鹿な人ではなかった。
わがままだけど我慢強い人だった。
だから少し時間をおいて落ち着けば、自分が言ってしまった「言うべきではない言葉」に気づける人だった。
末期がんだというのに「幸せだな」と言える人だった。

父は常に不安を抱えている人だったのだ。
幼少期は恵まれていなかった。
家に帰ると、家族が誰もおらず、数日一人で過ごし、ある日親戚が迎えにきて、それら親戚に育てられるという幼少期を送った人だった。

愛されていないのでは、という不安が心の根底にある。
権力を失ったら捨てられるのでは、という不安がある。

だから病気になって、仕事にもいけなくなり、ついに家族の介護に頼るようになったとき、ようやくはじめて安心できたのだと思う。
それでも心の葛藤は消え切らない。
だから家族は父に示し続けた。「どれほどあなたに腹を立てても、我々があなたを捨てることはない」と。

父は父親に向いている人ではなかった。
だから私も兄も、「お父さん大好き!」という人間ではない。
それでも私たちはたしかに家族だった。
利害関係だけで考えれば、私はとっくに父と縁を切っている。

父が死んだ今、そして私は悲しんでいる。
生前、さんざん父のわがままにうんざりとさせられたし、今思い返しても「あのわがままが恋しい」とはならないけれど、父は私のゲーム仲間でもあった。

私がリビングに陣取って新作のゲームを始めると、父はいそいそとベッドからリクライニングチェアに移動し、背後からああだこうだと感想を飛ばしてくる。
ガンが判明した後ですらそうだった。
謎解きで詰まれば「ああじゃないのか、こうじゃないのか」と言ってくるし、悲惨なミスを連発すると腹を抱えて笑った。

そして何度も、何日も「あれは面白かった」と記憶を反芻して笑う。
六十歳の父はほとんど少年だった。ずっと少年だった。
末期がんになって、死が間近に迫っている親との思い出がゲームなのか? と思う人もいるだろう。でもゲームは、病気で体力を失った父が楽しめる、ほとんど唯一の娯楽だった。
映画は二時間で終わるけど、ゲームは一日五時間も六時間もやって、一週間も遊んでいられる。

特に最近一番父を楽しませたゲームは『デスストランディング』で、私が荷物を大量に積載したトラックを谷間に落とし、その車が爆発炎上すると「このまま死ぬ」と思うくらいに大笑いしていた。

広いマップを走り回って、「あれはなんだ、これはなんだ、なんで進めないんだ」と試行錯誤するのは、ある種旅行のような楽しさがある。

長い時は、一日十時間以上も私はゲームをやり続けていた。
ちなみに私は無理をしていない。コントローラーを握ると私は体力の限界まで遊び続ける病を患っている。

そして父は不眠症で、夜通し一人でぼんやりと起きているようなこともあったので、私が夜通しゲームをしていることを喜んだ。

次のお気に入りが『パタポン2』というリズムゲーで、催眠効果でもあるのか、私がパタパタポンポンと素材を集めていると、ふといびきをかき始めたりする。
逆に私がゲームを終えると、「寝られる気がする」と寝始めることもある。

病院でこんなことをしていたら看護師に殺される。
私と父は共犯者のように悪い患者とその家族だった。

私が作家を目指すことを、父は一度もバカにしなかった。
作家になった私に、父は何も要求しなかった。
私が生活費を出すことを恥じ、私が治療費を出すことを嘆いた。

ある日、父が私に数万円を手渡してきた。
母に頼んで銀行から降ろしてきてもらったのだという。

受け取った私は何気なく「介護タクシーの足しにしようかな」と言った。
父はひどく落ち込んだ様子で、「そういうのじゃなくて、おまえの好きなものを買ってほしいんだ」と言った。
それで私はデッドプールのフィギュアを買った。
なんとこれが三万円近くする。
「お父さんが死んだらこのフィギュアをお父さんと呼ぼう」
「何言ってんだか」
そんなバカバカしいようなやり取りを、この三か月で私と父はやってきた。

入院したままではできなかったような毎日だった。
退院は父のためだけではなく、父を送り出す私たち家族のためでもあった。
百パーセントの完璧な介護ではなかったかもしれないけれど、私も兄も母も、それぞれ父を看取ったことにある種の満足感がある。
少なくともうちの家族にとって、在宅介護はベストな選択だった。

父が死んだ今、遺品整理を進める中で、父の財布を開いた。
クレジットカードを解約するためだ。
クレジットカードに並んで、私の名刺が入っていた。
最近作った、かたぬき箔押しのオシャレ名刺。
「くれ」と言われたから渡したけれど、まさか財布に入れているとは。
不意打ちで笑ってしまった。
「私のこと好きすぎでは?」
からかう相手はもういない。

だから財布に私の名刺を入れたまま、棺に入れて火葬することにした。
本名ではなくて、ペンネームの名刺だけれど、父は私が作家でいることを本当に喜んで、なにくれとなく病院や会社で自慢していたようなので、きっとあの世でも自慢に思ってくれるだろう。

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