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ホラー映画『ヘレディタリー/継承』は演出力の怪物という話(ネタバレあり)

古宮先生(https://twitter.com/furumiyakuji)が「ヘレディタリーのレビューしなよ」っていうからした。

【ザザス ザザス ナスナザス】

 2018年、トラウマ級この世でもっとも嫌な家族の映画、悪魔より全裸のオッサンが怖いなどなど、様々な感想がSNSに駆け巡った。
 それがこのヘレディタリーという映画だ。
 悪魔崇拝をモチーフにした映画で、それによって崩壊する家族の恐怖を克明に描いている。

 実はホラー映画はいわゆる「大ヒット」というような作品が生まれにくい。大体が単発の作品で「続編制作決定!」みたいな商売の仕方はほとんどないと言ってもいいだろう。
『SAW』やら『パラノーマルアクティビティ』のようなヒットシリーズが生まれるのは本当に稀なことで、ホラー映画が表社会で話題になる事すら珍しいというレベルだ。
 全米はよく泣くが、恐怖に震撼することはあまりないし、「ホラー映画」って単語を出すだけで「あ、怖いのは見ないです」と会話を打ち切られることすらある。

 そんな中、ヘレディタリーは突如として私のタイムラインに現れた。
 この作品は人気作であるので、多くの解説や感想記事が存在する。なんなら公式HPに「見終わった人向け」の詳しい解説が乗っている。
 
 解説が必要なホラーなの? 
 解説が読まないと理解できないホラーなの?
 そう思われるかもしれないが、そういうわけではない。

 この映画における「解説」とは、「どうしてこうなった!??」という状況をどうにか理解して心の平穏を保つためのものであり、神学的な知識がないと怖がれないというたぐいのものではない。
 むしろ「理解して恐怖を紛らわせようとする防衛本能」のような解説だ。それくらい、この映画が我々に与える恐怖は共感性が高い。
 
 このホラー映画は地続きの恐怖なのだ。
 それは「ジェイソンが襲ってくる!」とか「デスゲームに参加させられる!」というような非日常の恐怖ではない。
 誤解を恐れずに言えば、和製ホラー的な「嫌な想像力をかきたてる怖さ」に満ちている。

【監督の思考回路がホラー】

 この映画は親子三代にわたる物語だ。
 主な登場人物は祖母と、母と父、娘と息子。
 私はこの「母」にあたるアニーが主人公だと思っている。
 ざっくりとあらすじを説明すると、死んだ祖母・エレンが所属していたカルト教団によって、アニーの平凡な家族がズタズタに破壊される物語だ。

 エレンは自分の血筋に悪魔を降臨させる実験をしており、アニーの兄はこの実験によって自殺に追い込まれている。
 その関係でアニーは実母であるエレンを恐れているが、エレンはまだまだ悪魔降臨の実験がしたい。
 けれど自分はもう子供がうめないので、アニーの子供、すなわち自分の孫に男の子が生まれるのを心待ちにしちえる。
 アニーは長男のピーターを守るため、第二子である長女のチャーリーを「女の子ならそんなにひどいことはされないだろう」と見越してエレンに与えてしまう
 チャーリーって男の名前だろうって? そう、エレンは男の子が欲しかったので、女の子である孫に男の名前を付けたのだ。
 
 この物語は「そんな嫌な感じの祖母・エレンが死ぬところ」から始まる。
 葬式のシーンから入り、たくさんの人がエレンの死をいたんでくれるが、喪主であるアニーはエレンのことが好きじゃない。
 そして先述の理由で超おばあちゃんっ子のチャーリーは「鳥の首をチョンパ」したりと怪しげな行動が多く、実母であるアニーも持て余している。

 そういう不穏な家族背景から、この映画は緩やかにスタートしていくわけだが……この映画の怖さは「グロ」とか「リョナ」とか「化物でビックリさせてバーン!」ではない。

 演出が神がかり的に怖い。

 この映画においては「何が黒幕か」だとか「どういう目的で」だとかいうのはさほど重要ではなく、ただ1シーンごとにぎゅっと詰め込まれた「嫌な空気」こそが主役と言っても過言ではない。

「誰かが怖い」とかではない。
「このシーンが怖い」とかではない。
 全体に流れる「空気」が嫌だし「流れ」が怖い。

「あの影から何か飛び出してきそうでこわいなぁ……」という恐怖ではなく、いうなれば「小さな子供がマンションの手すりで綱渡りして遊んでいるのを目撃した恐怖」みたいなのが続く。

 我々はほぼ自動的に「あ、危ない……!」と思うだろう。「子供が落っこちちゃう!」と反射的に想像する。

 突然だが、ホラー映画には「二種類の恐怖」がある。
 
 1:恐怖を感じて振り向いたとき、後ろに何もいない肩透かしの恐怖。
 2:振り向いた先に、ちゃんと包丁を構えた殺人鬼がいるタイプの恐怖。
 
 仮に「子供が落ちそう」なシーンを作ったとして、その子供が無事なら前者のタイプだ。
 ただハラハラさせるだけ。
 けど後者のタイプはきちんと落とす。

 もちろんこの監督は子供を落とすタイプの監督だ

 しかもこの監督は、子供が落ちるだけでは飽き足らず、「落ちた子供がギリギリ生きていたのを助けようとした結果、友達がとどめを刺してしまう」というような演出をしてのける。

 この映画は悪魔崇拝をモチーフにしている映画だが、監督のアリ・アスターはおそらく悪魔に魂を売っている

【この映画には救いがない】

 悪魔払いをモチーフにしたホラー映画はとても多い。
・オーメン
・エクソシスト
・コンスタンティン
 などなど、ホラー映画界におけるいちジャンルとして悪魔ものは君臨している。

 しかし我々日本人は、知っての通りキリストの生誕を祝った一週間後に仏教的な除夜の鐘を聞き、その翌朝に神道系の初もうでに出向く人々だ。
 悪魔という存在はどちらかというとファンタジーな存在で、映画に悪魔が出てきて神父様が聖書を読み始めると途端に「何か宗教的なシーンがはじまったな」という、遠い異国の儀式を見るような気持ちになってしまいがちだ。

『オーメン』で怖いのは、子供に睨まれた親が煮え滾るスープの鍋に腕を突っ込むシーンであって悪魔との対話ではなく、『エクソシスト』で怖いのは少女のブリッジ走りであって悪魔払いのシーンではない。

 日本は文化的に「悪魔が退治されるシーン」にカタルシスを感じにくい背景を持っているのだ。
 だって悪魔祓いって基本は聖書読んで聖水を振りかけるだけだし。
 現代のアメリカが舞台で急に剣を持って悪魔とチャンバラを始めたら、それはホラーではなくファンタジーアクションというジャンルに代わってしまう。ぶっちゃけ『コンスタンティン』はホラーじゃなくてファンタジーアクションじゃないかと私は思っている。なぜかいつもホラーに分類されてるけど。

 話が横にそれた。
 何が言いたいかというと、「悪魔もの」というとそれだけで「楽しめなさそう」と考える人がホラー好きの中にも一定数いるけれど、この映画のモチーフは「悪魔崇拝」であって「悪魔祓い」ではない。

 つまりこの映画に悪魔と神父の対決はない

 さらにこの監督は、現代に生きる人々の大半が「悪魔なんているわけないでしょ」という考えを持っていることを見越してこの映画を作っている。

 悪魔を信じない現代的な考え方の観客は、映画の登場人物が霊魂の存在を信じ、呪いによって子供が殺されたと信じ込む過程を見て「あいたたたた」と思うだろう。
 そしてそんな妻をどうにかまともに戻そうと奔走する夫の姿に共感するだろう。妻を疑い、糾弾する夫の気持ちが理解できる。
 だから「夫が敵なので夫を倒せば解決」には絶対にならないことを知っている。
 そして理解するのだ。「この映画には倒すべき敵がいない」。人の心の動きこそがホラーだと。子供の死をきっかけに崩壊していく人間関係や家族の姿こそがホラーなのだと。
 
 しかし監督は先述の通り「子供が落ちそうになってたら落とすタイプ」の人間だ。悪魔が出そうな空気が出たら悪魔も出す。
 そして観客にこう思わせる。

 子供を失った母が精神崩壊し、悪魔の実在を信じるようになるだけの映画だったらまだ救いがあったのに、と。

 この映画の構造の巧みな部分は、「こうすればハッピーエンド」と思える結末が早々に消え去ることだ。

 具体的に言ってしまえば、妹チャーリーが兄ピーターの運転する車で死ぬ。

 妹の世話を押し付けられたピーターは妹を友達のパーティーで放置し女といちゃつき、一人になった妹はアレルギー物質の入ったケーキを食べた結果呼吸困難に陥る。
 この時点で観客は感じる「チャーリーはピーターのせいで命をおとすかもしれない」と。
 しかし事はそれだけでは終わらない。
 ピーターはチャーリーを病院に連れていくため車を急がせるが、苦しがったチャーリーが車の窓から顔を出し、電信柱にガツン!幼い少女チャーリーの首は地面に転がることになる。

 観客はかたずをのむ。「え? これピーターどうするの? 通報? 親に連絡? 家族関係気まずくなりそう」こう思う。

 しかし監督はこう考えた。

「よし、ピーターをこのまま何事もなかったかのように帰宅させて、車の中に転がる首なし死体を翌朝母親に発見させよう!」

 なんでだよ!!???
 頭に邪悪な虫でも飼ってんの!!?!? 
 
 
 どこの悪魔に魂を売ったらそういう発想をできるようになるのだろうか?
 おぞましすぎて感心した。
 物書きとしてうらやましくすらある、圧倒的邪悪がここにある。

 だれが想像できるだろう。
 朝、買い物に行こうと車に乗り込もうとしたアニーが、我が子の首なし死体を見つけて絶叫するのを聞きながら、誰が一体「この家族はどんな風に幸せ家族に戻るのかな♪」と想像できるだろう。

 観客は確信する「この映画に救いは用意されていない」と。

【家族の不和に心霊現象を添えて】

 そして案の定、娘を失ったアニーは病む。
 実はそもそも病んでいたのだ。夢遊病で息子を殺そうとしたことがあるというし、息子に「あんたなんてうみたくなかった」と言ってしまう。
 ピーターはそんな母親に心をさらけ出せるわけがないし、家族は実に的確にギクシャクし始める。

 アニーは怪しげな霊能おばさんによる交霊術をすっかり信じ込んで娘の魂を呼び戻そうとするし、ピーターはノイローゼ状態だ。
 会話もない食事の席にアニーはヒステリーを起こすし、ピーターは「母さんが僕に妹を押し付けたせいだ」とキレ散らかす。
 温厚な夫でありよき父のスティーブはこの状況をどうにかよくしようと努めるが、霊やら悪魔やらに傾倒する妻から息子を守らねばと、ピーターの親権を得て離婚しようと考え始める。

 この家族の軋轢と崩壊には、どこにもご都合主義がない。
 シナリオ上の都合で不自然な行動を取るキャラがおらず、全員が全員いい感じに自分勝手でそこかはとなくクズだ。
「めっちゃ近所にいそうだしなんなら親戚にこういう人いる」と思わせるリアリティがある。

 ってかどこかのお宅に取材してきました?

 そう、取材してきたのだ。人生をかけて。
 このヘレディタリーという映画は、監督の幼少期の体験に強く紐づいているらしい。
 家族喧嘩の生々しすぎる描写の源泉は監督の実体験ということだ。
 なお、この監督は「恋人と別れたから」という理由で『ミッドサマー』というホラー映画を作ったことを、他意はないけどここに記しておこうと思う。

 ところでそんな「生々しい家族の崩壊の過程」だけれど、その端々では「不思議な現象」が頻発する。
 アニーはチャーリーの交霊術を成功させてピーターを極度に恐れさせるし、ピーターは「見えない力」によって机にガンガンと頭をぶつけられたりする。
 よくある心霊現象だ。
 これをアニーは「最近死んだエレンが入っていたカルト教団の呪いだ」と考え、スティーブは「妻が壊れて息子がノイローゼ」になったと考える。
 心霊現象を信じ始めても、スティーブは「それから距離を置く」ことを選ぶのに、アニーはずぶずぶと悪魔崇拝の解明に傾倒していく。
 つまり「家族の不和」が加速したうえ、超リアリティのある家族の崩壊映画に「悪魔的な力によって蹂躙される人類の映画」という要素が混ざり始める。
 ここまですべて「アレルギー」や「事故」や「ヒステリー」や「ノイローゼ」や「家族の不和」で観客に恐怖を抱かせていた映画が、いよいよ超常現象まで使って観客を怖がらせようとしはじめるわけだ。

【その意思は誰のものか】

 ここでちょっと冒頭を思い出してもらいたい。
 チャーリーが小鳥の首を切断して遊ぶようなヤバイ子供だったことを覚えているだろうか。
 このシーンのメタ的な意味はドイツ映画『白いリボン』のオマージュらしい。この映画は大変難解で、私にはよく理解できなかったけど、『白いリボン』で優秀な女の子が父親の飼っていた小鳥の首を切り落としていたのは知っている。
 つまりこれは子供の中にやどる悪魔性の表現なのかもしれない。

 メタ視点から作品視点に話を戻す。
 公式サイトの解説によると、チャーリーの中には悪魔ペイモンがおり、ペイモンがチャーリーを操って鳥の首を切断させていたのだという。
 けれどペイモンは男の体が必要なので、チャーリーの首を切断して自分をチャーリーの体から解放した。
 そしてこの作品にはあと二人ほど首を失うキャラが出てくる。
 つまり「切断された首」と「悪魔ペイモン」は作品世界で強い関連性を持っているわけだ。

 悪魔がチャーリーを操って鳥の首を落とさせたのと同じように、実はチャーリーの首は母親のアニーによって失われている。
 パーティーに妹を連れて行きたくないとごねるピーターと、パーティーには行きたくないチャーリーを、アニーは母親の権限によって無理矢理送り出した。
 そしてチャーリーの首は電柱に激突して消え去るわけだが、この激突した電柱にはペイモンの紋章がある。アニーはもうこの時点で、無意識ながらペイモンに操られているのだ。
 その後も子供を想って行うアニーの行動は、すべて悪魔ペイモンに都合のいいように進んでいく。
 教団信者に騙されて悪魔を家に呼び込んでしまうし、唯一の良心ともいえる夫スティーブをあたかも心の痛みに鈍感な敵であるように排除しようとする。

 観客は「これがホラー映画だ」と知っているし「映画だから悪魔だって出てくる」と思っているから、やや主人公アニーに感情移入しつつ見ることになるが、この映画では全編を通して「スティーブだけが現代社会に生きる理性ある人間」として正しい振る舞いをし続けている。
 自分の子供を失い、妻が壊れていくなかで、これは大変強靭な精神力だ。そしてスティーブは常に正しいのだ。

 それが判明するのが、映画終盤である。
 アニーはチャーリー(すなわちペイモン)の書いたスケッチブックを焼いてくれと夫スティーブに懇願する。
 このスケッチブックにはピーターをいかにして殺すかというような絵が満載で、大変不気味である。アニーはいちどこれを燃やそうとして、ペイモンに燃やされそうになったことがある。
 だからこう思った。

「このスケッチブックを焼けば息子は助かる」

 そして夫に頼む。

「自分はスケッチブックと共に焼け死ぬかもしれないけど、息子を守るためにどうか焼いてくれ。私には怖くて焼けない」 

 なんと美しい家族愛だろう。
 けれどスティーブはこれをはねつける。「落ち着くんだほかに解決方法はある」とばかりに。スケッチブックを焼いた程度で悪魔を倒せるはずがないとでもいうように。
 監督は一瞬、ほんの一瞬私たちに希望を見せるわけだ。
 夫婦の愛が悪魔の力を打ち破り、息子も助かってこの家族は再出発できるのだと。
 
 だが何度も言う通り、この監督は「何かが起こりそうな空気をだしたら起こす」監督だ。

「スケブを燃やすと人が燃える」と言ったら何が何でも人は燃やす。

 スケブを燃やすのを拒否し、家族の再生を望むスティーブに、アニーは業を煮やしてスケブを自らの手で燃やす決断を下す。
 スケブを暖炉に叩き込むのだ。

 そして燃える。スティーブが。

 そっちが燃えるの!??
 なんで!!?


 さて、ここからが問題だ。
 なんというか、ここからというかこの辺りにはヘレディタリーにおける「なんで?」が詰まっている。

 そして評価が割れる。

 詳しく解説していこう。

【ホラー映画は怖ければいい】

 元も子もない話だが、ホラー映画の目的は「人を怖がらせること」だ。かのホラー帝王スティーブン・キングなぞは「自分はホラー作家ではない」と言っているが、たぶん物語の目的が「人を怖がらせる」という部分になく、ただ「恐怖」を書いてるからなんじゃないかと私などは思っている。

 しかしヘレディタリーはホラー映画だ。
 前半思う存分「嫌な家族映画」を見せておき、ラスト二十分ほどでこれでもかというほど「古のホラー映画のセオリー」を詰め込んでくる。

 私はスティーブが燃えた瞬間、映画が一本終わったと感じた。
 視点を少し変えてみると、この映画は父スティーブが息子ピーターを救うために悪魔崇拝のカルト教団に抵抗する物語だ。
 しかしスティーブは敗北し、アニーは「世界よこれが恐怖の表情だ」といわんばかりの五千点満点の絶叫を最後に母としての役割を終える。

 そしてここから明らかに流れが変わる。

 まず「スティーブが燃えた理由がわからない」。これはどの考察でも書かれているが、スティーブとスケッチブックを繋ぐものは何一つない。理由のない死だ。

 でもいい。設定上の理由がわからなくても、スティーブの死にはシナリオ上の意味がある。
アニーが死ぬと思ったのにスティーブが燃えたらビックリするし面白いでしょ?
 これが意味だ。
 設定上何のつながりもない(少なくとも大半の観客にはそのように見える)スティーブが、献身的なアニーの行動によって死ぬ。
 これはもう「アニーがよかれと思ってやったことはすべて裏目に出る」という、この映画全体を通した呪いのようなもので、細かく設定や理由を考える必要はない。

 恐怖心は人それぞれだ。理にかなっているし理解もできる出来事や行動が怖いこともあれば、なんの脈絡もない方が怖いこともある。
 私もSAWシリーズの後ろの方は「ビックリ殺人マシーンでコメディみたいに人が死んでくな」としか思わない感じになっていた。

 これは「血がドバっと出るようなホラーは苦手。怖いというより不快」というようなのと同じで、怖がれないのが悪いわけではない。
 趣味にあっていない。それだけだ。

 アニーの代わりにスティーブが燃えるシーンで「わけがわからないよ! 怖い!」と思う観客は絶対にいる。だからこのシーンはシナリオ上のミスでもなんでもなく、「これを怖がる人」に向けたシーンだ。

 また、ここに至るまで一つ一つの出来事の因果関係を調べ、観客と共に解決方法を探してきたアニーが完全に否定されるシーンでもある。
 貴様のやってきたすべてのことは無意味である。
 解決できるなど、とんだ思い上がりである。

 そしてアニーも、息子を守ろうとすることをやめてしまう。
 そればかりか、急に息子を襲う悪魔の化身となり果てる。

 家庭の中で唯一まともな人間だったスティーブが死んだ瞬間、母は息子に襲い掛かり、家には全裸で不法侵入してきたカルト教団が押し寄せる。
 いや「押し寄せる」は言い過ぎだった。そっといる。柱の影とかに全裸のオッサンがそっといる。
 これがちょっと笑っちゃうくらい怖い。

 これらすべてに何一つ説明がない

 この時点で、観客はかなりピーターにシンクロしている。
 目を覚まして一階に降りていくと、父親が焼け焦げて死んでいる。混乱していると、急に母親が襲い掛かってくるので思わず逃げる。
 
 なぜ母親が急にピーターを襲い始めたのか、観客は即座に理解できるだけの材料がない。
 ただ分かるのは「アニーはもうまともじゃない、逃げろピーター危険だ!」それだけだ。ピーターもそうだ。「ママが襲ってくるヤバイ逃げなきゃ!」という思いだけで、家の中を逃げ惑う。

 でも、この場合アニーは何がしたいんだろうか?
 ピーターを追いかけて、捕まえたらどうするんだ? 殺すのか? ペイモンの器を?

 だからアニーがピーターを追いかけまわすのは「おかしい」という意見がある。でもこれはホラー映画だ。おかしくない。
 前に「殺人鬼がゆっくり歩いてくる演出あるけど、あれを現実にやったら間抜けじゃない?」というような検証があった。めっちゃ笑った。これはつまりそういうことだ。
 冷静に考えたらおかしいけど、冷静に考える時間など与えずに、根源的な恐怖に訴えかけるシーンを畳みかける。

・味方だった母が敵になる
・すさまじい形相とスピードと姿勢で追いかけてくる
・天井裏の入り口を、天井に張り付いた母にガンガンガンガン頭突きでノックされる。(閉じこもった部屋でドアがすごい勢いでノックされるというのは伝統芸能的に怖いシーンの代表格だ)
・静かになって安堵したと思ったら不穏な音が聞こえる
・空中に浮いた人間が奇怪な動作をする
・その動作の正体が、自分で自分の首を切り落とす動作だと気付く

 私の記憶が正しければ、およそ五分程度の間にこれがすべて起こる。
 ホラー伝統芸能のフルコースと言う感じで、クライマックスとはこうでなければというような詰め込み方だ。

 特に「連続天上頭突き」には、映像的な新しい恐怖があった。なるほど、天井に中年女が張り付いて天井裏の入り口を頭突きでノックしまくる様子は「何もかもがおかしい」という感じで非常に怖い。
 これに対してピーターが叫ぶ言葉が「ママもう許して!」というのもぐっとくる。頼るべき親が敵というのはそれだけで恐怖だ。

 そして、音と動きだ。
 天井裏に逃げ込んだピーターは、「ざしゅ」という奇妙な音を聞く。
 振り向くと空中に浮かんだ母親が、両手にひもを持って自分の首をくくっている。

 骨付き肉を切断するためのワイヤー。

 それによって、自分の首を切断すべく、右へ、左へと腕を動かす。
 ざしゅ、ざしゅ、ざしゅ、ざしゅ。
 カメラが切り替わり、音だけになる。音は激しさを増す。ザシュザシュザシュザシュザシュゴロリ。

 完璧だ。
 切断シーンなんてほとんど見せていないのに、音だけで何が起こったかをリアルに観客に想像させる、完璧な演出だった。
 鳥、チャーリー、エレンとここまで首なし死体を重ねてきて、最後の最後にセルフで首をチョンパさせる流れの美しさもそうだが、シーン単体を切り取っても十分に怖い。
 
 悪魔ペイモンはピーターに限界まで恐怖を与え、キリスト教的な悪事である「自殺」に追い込むため恐怖演出をフルコースで与えたという解釈も存在するけれど、そんなつじつま合わせにはさほど興味がない。

 演出的な超高純度のホラーシーンが見られた。

 これがホラー映画ファンというか私にとっては大変に大きい。
 悲鳴すらない静かさのなか、襲われているピーターに物理的な命の危機は迫っておらず、ゴア表現と言えるような生々しさもない場面で、観客の想像力に働きかけて身の毛のよだつ思いをさせてくれた。
 
 ラストシーンは極限まで儀式的で宗教色がむんむんなので評価が分かれるかもしれないけれど、悪魔崇拝がモチーフだと最初から分かっていれば大して気にならないと思う。

 ところでこの映画が、この監督の初長編作品らしい。
 こわいね。

【グロ苦手だけど見て大丈夫?】

 この映画は、いわゆるゴア表現は非常に少ない。
「首の切断」というショッキングなシーンにしたって、皮膚が裂け血が噴き出し骨が砕けるという様子をつぶさに表現するような作品ではない。

 なので「グロいの?」と聞かれると、「視覚的なグロさはないよ」という答えになる。

 この映画のすごさは演出力だ。
 演出力とは「描いていない部分を表現する力」であり、たとえば「私悲しいの!」と口に出さなくても表情やBGMや雨で悲しさを表現する力の事をさす。
 そしてこの映画は、恐怖に対する演出力が非常に高い。

 だから見えていないのに、見えてしまう。

 あたかも幼い少女の首の断面を見たような気がしてしまうし、虫がたかった死体を見たような気がしてしまう(虫がたかった首は実際に見せられるわごめん)。
 だからホラー小説を読んで頭の中に映像が浮かんでしまうタイプの人は、たぶんこの映画を見て「グロい」と感じるだろう。
 視覚的なグロさを望んでいる人は逆に「ぬるい」と感じると思う。

 ところでこのレビューのきっかけである古宮先生もヘレディタリーのレビューを書いてくれた。
「いいこと考えたクロスレビューしようぜ」という申し出を古宮先生が心よく引き受けてくれたという形だけれど、どうもこの人は私が「グロ映画を普通の映画だと偽って人に勧める怪人」だと思っているらしい。

 もちろん私はそんな怪人ではない。

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 全然関係ないけど、私の著作が2022年くらいにアニメ化されるっぽいことが決定されたので、映画レビューが面白かったらコミカライズだけでも買ってくれるととてもうれしい。
http://lanove.kodansha.co.jp/official/reimeiki/

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