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子離れは自分戻しなのかもしれない
人生でたまに起こる、神の仕込みか?と思えるようなタイミング。それが最近起こっている気がする。自己無意識の現れなのか、自分というより年齢・年代の流れなのか、なんなのか。自分が誰かの妻とか、誰かの母とか、責任ある関係性が何もなかった、親や実家からも離れて自分以外の何者でもなかった時代の、家族単位でも夫婦単位でもない個人としての人間関係が、唐突に戻り?始めているような、そんな気が。
もともと人好きで、飲み好きで、お祭り好きの人間同士、結婚後はお互いの友人関係も会う時は徐々に夫婦単位となっていき、家族単位となっていき、そのうち、昔からの友人とはライフイベントの個体差が顕著になったりで、徐々に会う回数が減っていき、自然とご近所付き合い、実家付き合いがメインイベントになっていき。それはそれで子育て、夫婦関係、習い事、休暇の過ごし方など、主たる興味範囲が「子ども」周りで同じコミュニティだから話が合うし、だから居心地もいいし。これまで十分、楽しく過ごしてきてはいて。
ただ子育てもそろそろ七五三を一通り終え(七五三は実際、見事に成長の節目にあたると実感します)、2人目も来年は小学生。子離れがチラついてしまうような心と時間の余裕が唐突に生まれ、そこに向き合わざるを得ないことになった時、この9年で育んだコミュニティは、「子」の存在を無くしては成立して来なかったはず、「家族」単位でなくしては、楽しめてこなかっただろう、、そんなふうにハタと気づいて。ここから醸成されていく人間関係だってあるだろうから、ある一定の条件下でできたコミュニティが、その条件が無くなった時に即消滅となるわけではないとはいえ。そうかコドモの成長(変化)は、親の環境変化にもなるんだと。
で、その神のタイミングとは。20代を共に目一杯楽しんだ仲間たちとの再会が偶然続いたということ。ネタを見つけては集まって、朝まで飲んで喋って恋愛もして、心の支えだったような仲間でも、20代後半からは堰を切ったようにそれぞれ別々の道を進んで、拠点も別、結婚時期も、子どもの有無や年齢も別。自然と会う機会も連絡をとる機会も減っていき、それぞれ進んだ先の道で30代を生き抜いてきて、ここにきて。恩師の古希をネタにひと声かけたら即集合。10年以上前の空気感をそのまま残してワイワイできた瞬間の感動たるや。
職場の肩書も、戸籍上の役割も関係なく、一人のただの個人として話して笑って完結することの新鮮さが、電流のように体中を刺激する感覚があって。なんの責任もなく、ただそのまま存在させてもらえる感じというか。
「あ、もどった・・」
しゅるるるる〜って。巻き戻された感じというか。忘れてたというよりは、思い出したというよりは、戻った、が、ピタッとくる。その時だけ、その笑ってしゃべっている時だけ。10年以上前の当時だって、その時はその時なりの悩みとか、今思い出したくもない苦い思い出とか、かなぐり捨てたい恥とか山ほどあるので、決して、いつでも戻りたくなるような甘い時代というわけじゃないのだけども。むしろ見返したくない、冷静に見返したりなんてできない時代だったりするのだけども。
たった一つ。あの時は、ただの自分だった、っていう、それだけが、今と圧倒的に違うこと。その感覚に、「あ、もどった・・」って思えたタイミング。
出会いの必然性とはよく聞くけれど、人生のタイミングって不思議。捉えよう次第と言われたらそれまでだけど、このタイミングに意味づけをするもしないも自由なんだし。私は意味を感じるから。「もどしていこ」と思う。すこーしずつ。ほんで自分の世界を、今度は子どもたちに、見て、感じてもらえたらいいのかもしれない。そう考えると少しずつ、子どもに絡まりついていた自意識の紐が解れていくような。