子育ての目的と子離れの試練の矛盾
いいタイトルが思いつかなかった。でも、ストレートに思ったこと。子育てって、子どもの自立を最終目的にした行為であるはず。一人の人間を生み育てるけれど、ずっと自分のモノのように側に置いておける(置いていい)存在ではないことくらい、全母親が理解していることのはず。それは自分自身が証明しているはず、なのに、「子離れ」は、まあまあ少なくない人々にとって、「試練」と呼んでも良い負荷になってる(ような気がする)。
他の哺乳類と違って、自力では絶対に立ったり食べたりできない生物を手元に産み落として、とにかく死なないように、健やかに生き延びるように、本能レベルで必死に守って、どんな形であれ、とにかく思考のほとんどをその存在で埋め尽くされる、一生懸命なんて言葉じゃ説明しきれない、濃密すぎる時間を共にしていく中で、いつの間にか、自分のコドモは、無意識的に所有物のような感覚になっていく。これって、責められる筋合いのない感覚と言っていいんじゃないか。少なくとも、歩き出すまでの1年間は、彼・彼女の食事は自分から出る母乳だったりもするわけで。それはその存在が、自分の一部であるような錯覚だって起こすのではと、思うのです。
物理的な感覚はでも、実質1年前後。そのあとは、歩くし、食べるし、意思を持った言動が分かりやすくなってくるし、自分とは別の人間、別人格だと、親の方もようやく、認識し始める。相手は真っ当な意思を持った人間で、伝え方の術を知らないだけ。我慢する必要性も感じていない、何も知らないだけの、でも自分とは、全く別の、人間である。頭では少しずつ理解しながら、それでもまだ当分は、親が守らなくては死んでしまう、弱い弱い、とても弱い存在なので、冷静に見守り育てる難しさは増す一方、となってくる。
人間は弱い生き物で、自分より弱い愛すべき存在が目の前にいれば絶対に守る深い愛がある一方で、命をかけて愛せる存在がいるだけでは満足できずに、「自分」が置いてけぼりになることが、辛く感じる人もいる。
弱い愛しい命を守り育て続ける私を、認めて受け容れて愛して必要として。パートナーがいるとつい、その想いがさらに強く出てしまう。子どもにかけるエネルギーは、自分自身が決めたこと。対価を求めて決めたわけじゃない。それでも。自己満足で生きられたらいいのに。それができると思っていたのに。
目の前の小さな命に全力で何年も必要とされ続ければ、それはすごいエネルギー。自己肯定感があまり高くない人にとっては、甘美なご褒美とまで言える。母親でいれば、守り育てることに一生懸命でいさえすれば、この子に、世界に、間違いなく必要とされる。自分の生が肯定される。そんな勘違いの潮流に、乗るか乗らないか。生後10年前後のこのタイミングが、めちゃくちゃ大事な局面だと、すごく思う。
気付けるか気づけないか。向き合うか向き合わないか。勝負は、これから。