17.西晋王朝② 先行研究覚え書(1)
はい、こぼば野史です。
前回から始まっている完全に自己満足なシリーズである。
はじめに
今回から、先学の研究成果を纏めようと思う。今回纏めるのは、
越智重明「西晋の封王の制」『東洋学報』42巻1号、1959年、41-75頁
である。
一応、論文をメモする前に、越智先生の「封王の制」の前提となる、封建制について、毎度のことながら全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集』(山川出版社、2014年)から引用する。
封建 周の統治体制。周は、拡大した勢力範囲を支配するため、一族・功臣・土着の首長らに領地を与え世襲の諸侯とし、周王への祭祀への参加と軍役・貢納の義務を課した。同様に諸侯は直属の家臣団に領地を与え、忠誠の義務を課した。西欧の封建制が契約的関係であるのに対し、周の場合は血縁関係に基づくものであった。
--全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集』(山川出版社、2014年)より引用(見出し語以外の太字は筆者)
上記は周王朝(西周王朝、前11世紀~前770年)のものであるが、おおよそ同義と考えてよい。重要なのは、太字部分である。簡単にして箇条書きにすると、
1.一族・功臣・土着の首長を諸侯としてその領地(国)を支配させる。
2.その国の諸侯が亡くなったら、子が跡を継ぐ(血縁関係による世襲)。
3.諸侯は王朝(皇帝)のための軍役や貢納の義務がある。
4.諸侯は家臣に領地を分け与えることができる。
5.分け与えられた家臣は、諸侯に対して軍役の義務がある。
先ず、これが封建制である。そして、この諸侯にはランク付けがあり、王や公などがそれにあたる。
例えば、曹操は213年に魏公、次いで216年には魏王に就いている。曹操没後、子の曹丕はこれを世襲し、魏王就任、遂に220年、皇帝位に就くことになる(後漢王朝の滅亡)。これが封建制の具体例である。
越智先生の「封王の制」とは、諸侯のランク付けの最上位、「王」のランクを封建した顛末を語るものである。
それでは、以下、越智重明「西晋の封王の制」(前掲)の纏めである。
※以下、文中の語句は、論文の仕様に従うこととする。また、論文は旧字体で書かれているが、投稿では新字体に改めた。
はしがき
西晋王朝の「封建」制は、軍隊指揮の制度を備えるものであり、当時(1959年)は全体的視野を持たず、専ら八王の政治的活躍に注目するものだとしている。
なので、この論文では、「封建」制を解明する前段階として、西晋の封王の制の実態を、そして国家権力皇帝権力との関連についての考察を試みている。また、言い換えれば、封王の制の官僚制度的考察としている。
1 封王の制の純制度的考察
この論文の論点は、封王の制に、
「自律的独立的な機能があるかどうか」
である。
しかし。この実態を解明する前に、制度自体を先ず考察しなければならない。この封王の制は、
第1期……封王の制が成立する泰始元年(265年)~封王の制が改変される咸寧3年(277年)
第2期……封王の制が改変された咸寧3年以降
の2つの時期に分かれるという。この2つに分けた根拠は『晋書』の随所に書かれている(この投稿では割愛)が、
第1期の根拠……封王が自らの封国に行かず、都洛陽に留まって官僚として働く点(若干の例外あり)
第2期の根拠……封王が自らの封国に行くのが原則
このように理解すると、第1期では誰が国を治めていたのだろうか。第1期では皇帝自選の国相が国を治めていた。国相は封国の君主(封君)である。要するに、封王は封国経営にまったく関与していなかったらしい。
第2期、封王は封国に行くことが原則になった。これによって、封王は封国の地方長官的な権限を持つようになった。このタイミングで国相は地方次官の地位に甘んじるようになった。
ここでまた疑問になるのは、
「①皇帝自選である国相は、地方長官である封王の臣になったのか。②封王の臣になったならば、それはいつなのか」
である。
封国の長官が元の封君(国相)には臣と称していたが、封君が封王に代わると突如臣と称さなくなり、封国支配に変化をもたらすことになった。ただ、例外もあり、封王の臣と称する長官も少なからず存在した。
なので、①の結論として、ほとんどの長官は封王に対して臣とは称さなくなったが支配体制に組み込まれたことは確かであり、逆に封王の臣と称する長官はそれを積極的に受容した、と考えてよいだろう。
②の問いに対する結論は、服喪の制を見ると明らからしい。皇帝自選の官吏が封君に対する3年喪に服することは否定され、この結論が出たのは第2期であるとされている。
要職に就いており、特別に封国に行けない封王も国相を臣としており、ここに全国的に封王が国相を臣とする、という拡大解釈がなされていた。
子の後、第2期では制度上国相は封王の純臣かつ官僚のトップとなっており、封王が亡くなった後、3年喪に服するという理解がなされた。
ここでやっと封王と国相の立ち位置が解明したわけであるが、もう1つ疑問が生じる。「なぜ皇帝(西晋の武帝)は皇帝自選の国相を皇帝の陪臣、そして封王の直臣とすることを許したか」ということである。
これの結論は、武帝と貴族の関係性(君臣関係)に基づくものにある。外面的には直接的支配の完徹の意図を示しながら、内面的には貴族制社会の持つ秩序を容認し、両者の一体化を進め、国政の運営を円滑化する目的がある。
要するに、外面的には皇帝が封王を強烈に支配していると意図させると同時に、内面的には各官僚機構における長官とその配下の臣との関係性を肯定していたのである。
ここからわかるように、皇帝自選の国相とは、対外的には封王の地方次官として、封王の尊厳性を保たせる役割があった。対内的には、皇帝自選という名目の下、封王の監視という役割があった。
しかし、第2期において、国相が封王の臣と受容することによって、国相の役割は形骸化したとされる。
二 封王の制のもつ軍事的機能
--続・封王の制の純制度的考察--
封王の制の特徴の1つに、封王が多大な軍兵を有し、その最高指揮官に君臨しているという点である。そしてこの軍兵は、長官と官兵の関係性を維持していており、君主とその私兵という性格はなかったものと解釈される。
ところで、封王のうち有力な者は、四征将軍、都督、校尉など将軍号を与えられ、第1期では封王が四征将軍になっても、任地と封国の一致はなかった。故に、封王が封国に有する軍事機能≠封王の四征将軍などに有する軍事的機能という解釈が成立するのである。
そのため、四征将軍に任命されると、封国に有する軍事的機能とは別の、四征将軍として有する軍事的機能があるという結論に至る。
第2期の開始である封王の制の改変は、この二重の機能を一致させるためになされた措置である。この改変によって、任地と封国の方面の一致がなされた。
ところで、この封王が持つ軍事的機能は時代によって異なり、それを
①第2期の初め(277年)~太康元年(280年)、州郡の兵を去る政策が実施される前
②州郡の兵を去る政策が実施された後~永寧年間(301~302年)
③永寧年間以降
と分けて見ると、
①の期間は前述したように、封王の封国に有する軍事的機能と封王の四征将軍として有する軍事的機能は、ほとんど一致している。
②の期間は、天下統一前から始まる。天下統一前、孫呉政権が江南にあるうちは農民が多く軍兵になっており、農耕従事者が少なくなるという弊害を生み、政治を不安定にさせていたが、やむを得ずこれを看過した。天下統一後、この対策が喫緊の課題となった。先ず孫呉政権を討伐するに必要だった軍屯田が必要なくなり、さらには軍屯田自体の設置すら廃止されたと考える。
因みに、州郡の兵を去る政策を具体的に記すと、軍事的機能が文治系統の官衙(役所)と戎事系統の官衙に内容的に混乱していたのを、戎事系統の官衙に返す(軍事的機能を戎事系統の官衙に温存する)ことであったと理解されている。このように、この政策は、官衙の整理であり、中央の軍事系統の官衙にも地方の軍事系統の官衙(軍府)にも、軍兵保有の影響はほとんどなかったようである。
これを経て、封王と官衙の関係を見ると、ほぼ永寧年間以降は、地方が盗賊などで荒れるようになり、再び州郡は軍兵を準備するようになったため、州郡の兵を去る政策は瓦解したとされる。
軍事的機能を温存した官衙として校尉の府があるが、校尉は軍事的治安維持に特化した府であったことが考えられている。
次に四征将軍の府であるが、これは独自に軍兵を有しており、これは四征将軍が四征将軍たらしめる、各方面の軍事的統轄者であることが所以である。そのため、都督や刺史など軍事的機能の支配的統轄者という権限も付加される。図式で表すと、刺史や太守(<都督)<四征将軍ということになる。
都督の府は上記のように、刺史や太守の軍事面での支配的統轄者という色彩が強い。故に、刺史や太守の軍事的機能が低ければ、都督の軍事的機能の低下も招くのである。
封王が就任した軍事系統の長官は、四征将軍または都督である。以上から、官衙の軍保有は否定されず、長官は軍事的機能を有していたことが理解される。しかし、ここに強大さは感じられない。
この軍事的機能をここまで問題にしているのは、西晋王朝の在り方にどのような関連性があるかである。
強大さは感じられないが、相対的に見ると、封王の制が持つ軍事的機能は、各地方において有する軍事的機能の総和に対して大きい割合を占めている。
③の期間であるが、州郡の兵を去る政策が瓦解し、州郡が再び軍兵を準備するようになる。これによって、都督やその支配的統轄者にあたる四征将軍の軍事的機能が著しく強化されるのは明確である。因みに、このタイミングで封王が諸将軍号に就任されている数が増加している。四征将軍に限ると、太康元年の封王は、
1.平北将軍趙王倫
2.鎮西大将軍扶風王駿
3.鎮南大将軍汝南王亮
の3名であり、異姓では
1.安北将軍厳詢
2.平南将軍胡奮
3.征東大将軍王渾
4.安南将軍滕修
の4名であり、異姓の方が多い。しかし、永康元年(300年)の八王の乱勃発の年になると、封王として
1.鎮北大将軍成都王穎
2.安北大将軍(・都督青洲諸軍事)高密王略
3.平西将軍河間王顒
4.平東将軍斉王冏
の4名であり、異姓では
1.平南将軍孫旂
がいるのみである。
封王の諸将軍号の増加と、封王の軍事的機能の高まりの関連はまったくもって看過できない箇所である。
また、涼州、雍州、荊州の3州では、校尉が刺史を兼任する場合も見られた。刺史を中心に据えて考えれば、刺史が軍事的治安維持の兵力を有したことになり、このような事実は、八王の乱勃発を待たずに、州郡の軍事的機能が顕在化したことを表すのである。
3 封王の制生成発展の背景
この封王の制が生成発展した背景には、豪族(貴族)勢力の対処という点があるらしい。この豪族勢力は、西晋政権を脅かす要素になしえないという理解が当時からなされていた。
この要素を回避する術が「封建」制であり、豪族を封建するのではなく、皇帝の一族を封建する制度(封王の制)が採られた。
ここで1節で述べた、「外面的には皇帝が封王を強烈に支配している」一方で、「内面的には各官僚機構における長官とその配下の臣との関係性を肯定していた」という記述を言い換えると、皇帝支配の原理が公式に存在するにもかかわらず、私的な人的結合の原理もまた公式に認められたという言い方ができる。
この私的な人的結合が、無数に結びついて豪族勢力の伸張を招き、比較して皇帝権力の微弱化を招いたといっても過言ではない。そして、これは封王とその封国における臣(異姓貴族)との関係も同質だったとされる(例えば封王と国相は被監視と監視の関係だったが、時代が下るにつれ、封君と直臣の関係になっていった)。
また、この私的な人的結合はその一族を中心にする動きが強いとされる。武帝の、封国に自らの一族を封建させるという現象も、それが垣間見えるのである。
ここからわかるように、国家経営は第二義とする考えがなされ、一族繁栄が第一義という考えをしなければならないのである。
ここから見るように、天下を安定させるため、豪族には、一族繁栄を促すよりも、国家経営を促さなければならない。この節冒頭にも言ったように、一族繁栄を第一義に考える豪族の対処に腐心したのである。
武帝はこれを実現するため、豪族勢力を抑えるために封王に強大な軍権を与えたのである。
第2期では、豪族勢力はさらに人的結合を拡大させ、皇帝権力を凌駕する勢力になる危険性を孕むようになった。ここで徐々に、封王の制が反「国家」的な色彩を持つようになってくるのである。
4 封王の制、ことに広義のそれのもつ自立的独立的性格
第1節冒頭、封王の制に「自律的独立的な機能があるかどうか」のアンサーである。
結論的に言うと、自立的独立的な機能はあった。その封国での頂点に君臨する封王が、臣との私的な人的結合を有し、私兵を肥やすという現象が現れた。この現象が現れたことにより、封王は在地の勢力との結びつきも強化された。
これによって、皇帝権力(皇帝が封王を強烈に支配している体制)から脱し、故に皇帝権力の弱体化を招いたのである。
この結果から、武帝の考える封王の制とはまったく異なる形で封王の制は完成し、自律的独立的な機能(特に軍事的機能)を有した封王が八王の乱を勃発させたのである。
論文纏め、以上
終わりに -個人的感想-
かなり難しい論文であった。本稿では全て省略しているが、論文に引用されている漢文がほとんど白文(返り点なしの漢文)なので、読むのが困難であった。
また、○○的という言葉が無数に表れる点、指示語が豊富な点、これも個人的に読むのが困難になった点である。
魏晋南北朝時代の永遠の課題とも言える「貴族制社会」についても、豪族や貴族など記述方法がバラバラで、本当は分けているのだろうが、理解に苦しんだ。
しかし、さすがは戦後の魏晋南朝期研究の大家、越智重明先生。封王の権力が醸成された過程をよく知ることができ、非常によい論文であった。封王と在地勢力との関連は、前々から疑問に思ってもよかった点であるが、それに気づかなかった私を戒めたい。
ここから、西晋朝で最も対象になっている八王の乱が勃発する端緒になったことが分かった。
本稿の参考文献
全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集』山川出版社、2014年
立間祥介『諸葛孔明-三国志の英雄たち-』岩波書店、1990年
福原啓郎『西晋の武帝 司馬炎』白帝社、1995年
以上。頓首頓首。
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