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儚い命の幸せな最期 〜親父の最期を徒然に〜

このnoteを始めるちょいと前。
実はうちの親父が亡くなりましてね。78歳。あと2週間で79歳の誕生日。
そんなタイミングでの急逝でありました。

これを記しているのは2024年10月18日。
この前の日に俳優の西田敏行さんが亡くなったんです。寝室で倒れていて既に亡くなられていた・・・。
診断は虚血性心疾患。

実はうちの親父も同じだったんです。
うちは親父とおふくろが長いこと寝室が別だったのですが、おふくろが朝起きて声をかけたけど反応がない。体に触れてみたら力無い。脈も振れないので救急車呼んで北の大地で最大の高度救命救急に行ったけれど、なんともできず。

亡くなったのが、ある土曜の朝。連絡が来たのは死亡確定の直後。
正直、そこから実家にたどり着いて、全てが終わり東京に帰ってくるまでの記憶がほとんどないのです。

覚えてるのは・・・。
人間ってのはあっけないものなんだな。そんな言葉が頭の中を駆け巡っていたのと、悲しいって感情は一つも生まれてこなかったこと。
そんな記憶しかないんです。

そして、もう一つ覚えてるのは葬儀場で最後のお別れが終わり棺の蓋を閉める時、甥っ子が不意に放った一言。

「じいちゃん、ばいばい・・・」

まだ、あどけない子どもが不意に放った、とんでもない威力がある一言がオイラの涙腺トリガーを全力で引いてしまうこととなり、それまで溢れることがなかった涙が一気に溢れたのです。この涙が、一報を聞き実家にたどり着いて親父の顔を見てから初めての涙だったような気がします。

それから先、東京に帰ってくるまでの間の記憶もありません。
普通にしていないとなと思ったのか「X」の更新だけは東京にいた時と同じようにしていたようで・・・。

78歳と11ヶ月と16日
太平洋戦争の終戦から1ヶ月後。札幌の隣町、山の中の農村集落で生まれてきた、うちの親父。とんでもなく、一生懸命生き抜いた人でした。

中学を卒業して、生まれた家を出て親戚の家に世話になりながら、その家の仕事をして定時制の高校を卒業した親父。

とんでもない仕事人間で、ある時期までは家庭は二の次。体は小さいけど力持ち、背中がカッコよくて存在がデカい人でした。オイラがあの生き方を真似しようと思ってもムリだってくらいの苦労人だけど、本当にカッコの良い人でした。

年取ってからは、町会の役員やって盆踊りとかのイベントの時は必ずと言っていいくらい親父の周りには町会の子どもたちが大勢いて楽しそうにしている。
オイラたち実の子どもには、見せないような優しい顔を持った人でもありました。

救命救急で処置をしてくれた医師によれば・・・。

「ご本人はもしかしたら、こうなったことが分からないままに逝ってしまっているのかもしれない。」

亡くなる前の日まで、自分の回りの用事を足すためにお袋と一緒に車に乗りながら各所回って、色々な人に会って・・・。病気の体で自分の力の限りをつくしながら生きてきてある日、自覚ないままに苦しまず、普通に寝るみたいな命の終わりを迎える。

こんな人生の最期。どう思います?
晩年は色々な病気があって大変だったけど、大好きな自分の家で最期を迎える。
病院で最期を迎える人が多い中、幸せな最期だったのかな・・・。
と、オイラは思うのです。

オイラも、あと何十年、生きられるか分からないけれど、そんな最期を迎えられるように後悔なく生きていきたいなと・・・。

四十九日も近くなったので徒然に・・・。

親父。48年間本当にありがとな。
何十年後か自分じゃ分からないけど、俺も必ずそっちにいくことになるから、ハブらないで仲間に入れてくれよな。

その時まで。あばよ・・・。

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