武士道の本質

 インバウンドの影響や、メディアの日本凄い系の番組などの影響で、日本をアピールするネタとして、武士道、サムライなどの言葉が良く使われ、外国人にもよく知られている。
 武士道を愛し、武士道に憧れを持つ人間として喜ばしいと思う反面、言葉だけが安売りされている気がして複雑な心境であるのは私だけだろうか。
 武士道を語り出せば人の数だけ武士道があるが、本質は、自分の生命よりも大切と信じる何か(江戸時代では主君)の為に、自己を犠牲にした生き方や死に方であると私は理解をする。その意味で戦国時代や江戸時代だけではなく時代を超えて、また武士階級以外にも、武士道が古事記の時代から存在していたと言える。だからこそ、資本主義が限界を迎え、今だけ金だけ自分だけ精神に汚染された現代社会において、国籍を問わず武士道が再び見直されているのだろう。武士道は、昔の武士だけの道ではない。全ての日本人いや、愛に生き、そして死のうとする全人類が目指すに値する道だと思うのである。
 武士道や日本文化の表面だけを捉え、武道をやり、刀を振り回し、茶道をやり、和服などを着ている様子を日本文化云々とSNS等でやたらとアピールする人達が増えている。それらの真剣な稽古を通じて身をもって日本精神を涵養することは素晴らしいことである。しかし、形だけを真似て、それをやってさえいれば、武士道、日本文化などと考えるの浅はかに過ぎる。また、それを商売にして、また興味本位の外国人達にこれが武士道等と金をとって紹介する輩も存在する。
 江戸時代の武士は、剣など武術の道が武士道だったかもしれない。しかし、生きる時代に合わせてアイテムは変わる。逆に言えば刀を差さない現代においても武士道を実践できるということだ。人それぞれに、自分の生命を燃焼するに値する何かを見つけて、その為に命懸けで生きることこそ、真の武士道ではないだろうか。見せかけに惑わされず、本質を外してはいけない。

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