芥川龍之介の『隣室』をどう読むか
この『卒業論文マニュアル』は芥川龍之介の『あばばばば』を例に卒業論文のだらしない書き方を指南している。害悪であるデッドコピーを拵える手引きをしている。ではこのおバカ本の執筆者たちは『隣室』をどう読んだだろうか。
大正九年に書かれたこの作品は『あばばばば』が一連の体験記などではなく、さまざまなプロットやモチーフを煮詰めて鋳めた小説なのだという傍証として意味を持つだけではなく、少し奇妙なスタイルを試している。
会話から始まる『隣室』という題の話なので、隣室から声だけ漏れて來るのかと勘違いしていたところ、「姉は十四五。妹は十二歳の由」とあり、ん? と気が付く。この話者は……。「この姉妹二人ともスケツチ・ブツクを持つて写生に行く。」はたまたま見かけたで済む。次の「雨降りの日は互に相手の顔を写生するなり。」は隣室内を覗いてでもいるのか。「父親は品のある五十恰好の人。この人も画の嗜みありげに見ゆ。」とあるので、この話者は宮城県の青根温泉の宿に泊まり、母親のいない三人家族をじっくりと観察していたことになる。
少々気持ち悪い。そして母親の不在が妙に気になる。そして五十恰好で下の娘が十二歳だとかなり「遅い子」だということも気になる。宮城県の青根温泉で何を写生するのかも気になる。混浴かどうかも気になる。話者の連れも気になる。部屋の間取りも。
大正九年七月が『影』、小品である。九月『秋山図』がまた小品である。大正九年十月『お律と子守と』が芥川にしてはやや長いが、少し間伸びをしているのが気になる。
気になることだらけだ。
あ、大切なことを書くのを忘れていた。
『あばばばば』であやされる赤子とは人民の意味でもある。人民をあやす怖ろしい母とは一体誰なのか?
震災後誰かは……。
[余談]
芥川の断片に、
というものがある。
ひょっとして「共感覚」?
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