こんな南画はない 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑮
渡辺崋山の中にある政治的なもの、そこがつかめないと先に行けないような気がしてきた。
言葉を話す社会的な存在としてのヒトとしての渡辺崋山などという存在について、私はこれまで一度も考えたことはなかった。というよりも渡辺崋山に関しては漠然と「なんか絵の人」くらいの知識しかなかった。
確かに天保九年、渡辺崋山は『慎機論』を書き幕府を批判している。しかしそれはまだ七年も先のことだ。渡辺崋山にはそうした芯の強さのようなものがあることは認められていたとして、芥川の書きようはまるで「崋山の政治上の意見」が既に反幕府的なものとして現れてでもいたかのようだ。
しかしウィキペディアによれば渡辺崋山は役人としてはまるで絵に描いたような有能な働きぶりを示す。いわゆるテロリスト、破壊型の改革派ではなく、堅実な実務家、理想的な役人である。
芥川は、或いは馬琴は渡辺崋山のどのような「政治上の意見」を見ていたのであろうか。
年譜によれば渡辺崋山は十三歳にして儒学者鷹見星皐の門人となる。十六歳で南画家白川芝山の門人となるので、画よりも早く儒学を学んでいたことにはなる。しかしまあ当時の武家では遅くとも六七歳から四書五経の素読くらいはしていたことであろうから、渡辺崋山が特別凝り固まった儒家だったというわけでもあるまい。
そしてこの年英国船が長崎を掠めている。
崋山二十六歳の時、元旦「藩政改革意見書」を発表。父、定通は年寄り末席に抜粋され加料され四人扶持となる。(一日玄米五合が貰える。)三十一歳で結婚。順調に出世している。しかし三十三歳で発病。転地療養となる。
この年黒船打ち払いの令が下る。
文政七年、つまり1824年頃には西洋画にも興味を持ち、蘭学も始めたという記録がある。
天保三年五月には崋山は家老職の末班に列す。したがってやはりタイムスリップの可能性がこの話の設定を俄然面白くしている。
勿論天保二年にせよ、天保三年にせよ、そこにはまだ『慎機論』は存在しないわけなので、『慎機論』を掘り下げて馬琴の危惧を言い当てることはできない。むしろ西洋画と蘭学への興味というところにフォーカスすれば、黒船打ち払いの令が出ている最中に、むしろ開国派、とまではいかないまでも西洋文化の受け入れそのものには賛成の立場であったのではないかとは考えられる。
例えば南画というもの自体が中国のものであった。
しかしそれは個人の中で古人の成果をかすめ取りながら「まづ一足でも進む工夫」が凝らされ、次第にオリジナルなものへと変化していくものでもあった。
こんな南画はなかろう。渡辺崋山は南画に学びながら西洋画も収集し、「古人と後生との間に挾つて、身動きもならずに、押され押され進む」過程において、やはり独特の日本型折衷の妙を身に着けていたように見える。
これら崋山の画にみられるものは偏狭なテロリストの狂気ではなく、むしろ柔軟さ、自由、多様性である。南画は南画でいかにもスタイリステックにまとめながら、どこか漫画のような絵もある。こうした器用さ、柔軟性こそ、当時の封建社会にあっては最も剣呑なものであると馬琴は見ていたということなのであろうか。
考えてみれば自由や民主主主義ほど危険な思想はない。今、自由とか多様性とか言っていてどんなことになっているかと見てみればいい。
テレビでは伝えられない現実がある。芥川にどんな未来が見えていたのかは不確かながら、封建主義社会が保守的であり、自由や柔軟性などというものない世界であったことは確かである。今でこそ崋山の態度は立派に見えなくもないが、保守の立場からすればまさしく危険なところが見えたのではなかろうか。
馬琴の言う「生きのこる分別」とは当然「今の社会に合わせること」であり、自重すべきなのは崋山の「柔軟さ」だったのではあるまいか。
しかしこうして後に手鎖となる爲永春水と失脚する渡辺崋山を馬琴と並べた芥川の意図は、「生きのこる分別」に長けた馬琴を浮かび上がらせることにあろう。爲永春水も渡辺崋山も自由故に失敗したという理屈であれば、馬琴は自分を曲げ、「生きのこる分別」の為に自分の芸術的良心を犠牲にすることはなかっただろうか?
その答えはまだ誰も知らない。何故ならその続きを私がまだ書いていないからだ。
[余談]
そういえば俊寛も失脚していたなあ。
次に失脚するのは君かもしれない。
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