だから念押ししたのか 芥川龍之介の『尾形了斎覚え書』をどう読むか③
昨日は、それでいいのか、泥烏須如来! なんとかしろよ泥烏須如来! と書いた。里の病気は治さずに篠を悶絶させて、それでなにが如来なのかと。
全く有り難くない教えがあったものだ。とはいえ、現世で利益が得られる宗教なんてものは……ある方面で就職に有利なあの宗教くらいか。とりあえず芥川は『尾形了斎覚え書』においては切支丹を肯定する気はまるでないらしい。篠はこのまま死んでしまうのか。
いや、泥烏須如来には棄教した篠の命をたちまち奪う力さえないらしい。そんなものが失われて困ることなど何一つなかろうに、篠は泣く。
そもそも何が切支丹ものなのかとか、何が神秘のパワーなのかは曖昧ながら、例えば『じゅりあの・吉助』は最後に口の中から花が咲き出てくるのでまあ、神秘かなと思うところ。反対に『神神の微笑』は神秘的なことを語ってはいるけれど現象としての神秘はおきていない。『黒衣聖母』は切支丹もの?
いずれにせよこれまで描かれてきた神秘のパワーは『邪宗門』のガマの油売り的なインチキ臭い蘇生を除きほぼ負のパワーで、切支丹参加者に現実的にメリットがあるようなものではなかった。
と仮にそういう区分で考えた時、ここまでのところ『尾形了斎覚え書』は「神秘のパワーが描かれないもの」に分類される切支丹もののようだ。
そしてこうして分類してみて改めて思うのは、遠藤周作の『沈黙』が「神秘のパワーが描かれないもの」でありながら神の沈黙の解釈でキリストを肯定したのに対して、芥川はかならずしもキリストを中心において切支丹というものを描いて強いないということだ。
さらに「神秘のパワーが描かれないもの」であれ「神秘のパワーが描かれているもの」であれ、であれ、キリストは慈しみに充ちた神々しい人としては描かれていないことに気が付く。『おしの』のキリストは臆病者、『じゅりあの・吉助』のキリストは母を……、『きりしとほろ上人伝』『さまよえる猶太人』のキリストの恐ろしい。
ここまで見てきた芥川龍之介の切支丹ものは、一貫してキリストを疎外、または否定してこなかったであろうか。ここまでのところ『尾形了斎覚え書』は役に立たない伴天連、役に立たない泥烏須如来の話ではあるが、キリストが役に立たない話でもある。切支丹と言いながらキリストを疎外する。そして最後には『西方の人』でキリストをジヤアナリストと読んでみる。しつこい。
塚越弥左衛門、村方嘉右衛門いずれも芥川の創作した人物であろう。里は死に篠は発狂したと。んー。「猶、此儀は、弥左衛門殿直に見受けられ候趣にて、村方嘉右衛門殿、藤吾殿、治兵衛殿等も、其場に居合されし由」ここが少し解らないな。九歳の娘の死骸はそこそこ大きかろう。それを抱いた狂った女を名主が観察する? たまたま通りかかった? そこを強調する意味は何だろう。
これは複数の人間が確認した事実だと強調される意味は何だろう?
ん?
梁瀬?
そうやったかな?
ちょっと確認してみよ。
みんな柳梁や。
また筑摩か。
何しとんねん筑摩。
責任者誰や?
で、どう責任取るつもりなんや?
昨日死んだ人は、間違えた作品読まされたまま死んだんやで。
これ記者会見でも開かんとあかん。
翻訳する人、気つけなはれや。
まあよくよく考えると坊主も死人で商売しているわけだが、伴天連も葬式くらいしかできないわけか。「はるれや、はるれや」と言えば人が救われるわけでもあるまいが、それは「なんまいだー」も同じ事。その馬鹿馬鹿しい感じがよく出ている。これは切支丹を嗤いながら仏教徒も笑われているところか。
もう一度「死ぬ前に来い」と文句を言わせたいところか。
え?
生き返った?
ええと、「里、両手にてひしと、篠頸を抱き居り、母の名とはるれやと、代る代る、あどけ無き声にて、唱へ居りし」って……まるでこれは聖母マリア像の構図ではないのか?「神秘のパワーが描かれているもの」になった。
とりあえずこうなった、と気が付いたところで今日はここまで。
[余談]
続編?