おぼろかに松風聴くや文学士 芥川龍之介の俳句をどう読むか49
松風をうつつに聞くよ夏帽子
この句には、
という言葉が添えられている。震災後の興奮が冷め、次第に現実感が戻りつつある過程のころであろうか。
癆咳の頬美しや冬帽子
この句同様帽子はさしたる意味を持たず、ただ開いた取り合わせの中にある。ただ「うつつに聞く」というところと「夏帽子」のさしたる意味の無さが不思議な調和も見せている。
この句には、
大災後芝山内を過ぐ、として
松風をううつに聞くよ古袷
やや趣向の異なる別バージョンの句もある。
と思えば「うつつ」を、
この「現実」に解している人がいた。
面白い解釈ではあるが。
ちなみに青空文庫に「うつつに聞」の例文が13あるが全て「夢うつつ」「ぼんやりと」の意味である。国立国会図書館デジタルライブラリー内では「うつつに聞」が25例あり、「現実」と明確に解せる事例は一件も見当たらなかった。
確かに「うつつ」には「現実」という意味があるが「うつつに聞く」と用いるケースではほぼ「夢うつつ」「ぼんやりと」の意味で使われているのではないか。「うつつともおぼえずこそ」という場合が「現実」で「うつつの我が身」が「生きている状態」、「うつつならず」の「うつつ」が「正気」で、「うつつ」はどう続くかで意味が変わる言葉だ。
逆に「うつつとは聞こえず」となるとこの「うつつ」は「現実」であろう。
青空文庫内の芥川龍之介の語彙で「うつつ」は「夢うつつ」が4例、「ぼんやりと」の意味が1例、「うつつをぬかす」が1例。「現実」という意味で「うつつ」を用いている2例ではいずれも「夢ともうつつともつかない中に」(『おぎん』)「闇のうつつはさだかなる夢に」(『好色』)と「夢」との対比のなかで用いられている。
こうしたことからこの句の「うつつ」は「ぼんやり」という程度の意味で、震災後のふわふわした感覚の表れだと見てよいであろう。
松風などこの程度のものだ。
夏帽や村に一人の文學士 呑川
この句は良いな。『子供の病気 ――一游亭に――』によればこの年の七月、芥川の家には筋肉労働者と称する青年が何度か小銭をせびりに訪れていた。
そういう時代であり、震災直後でもあり、夏帽子さえ被らぬものも少なくはなかったであろう。そう考えると、「現実に」「生きている状態」にあり「気が確かな状態」であることが夏帽子によって証明されている句だと読んでも良いだろうか。
なお、
松風をうつつに聞くよ夏帽子
この句に感動した村上春樹が書いた小説が『風の歌を聴け』であることはあまりにも有名である。
嘘。
松風をうつつに聞くよ文学士
松風をくらくら聞くよ夏帽子
松風や帽子被らぬ労働者
あはつかに松風聴くや文学士
つくねんと松風聞くや夏帽子
そこはかと松風聞くや夏帽子
なにとやら松風聞くや夏帽子
今日のところはこの程度に解釈しておこう。
【余談】
これは誰の句?
【余談②】
大正二年、藤島武二の『うつつ』を褒めている。
さあこれは?
【余談③】
手にとれば月の雫や夏帽子 鏡花
いや、鏡花、ロマンチック。