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片岡良一「『彼岸過迄』の意義」   谷崎を論じて見ろよ


「彼岸過迄」の意義

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 「彼岸過迄」が作者漱石にとつて一つの時期を劃する作品であつたことは、旣に屢々云はれてゐる。元來、作家としての漱石の行程には、大體三つの時期が考へられる。

 第一期は「猫」や「倫敦塔」の明治三十八年から翌三十九年末「二百十日」などの頃まで。所謂低徊趣味と非人情主義との時代である。人間、尊重と主我的自由主義との近代的傾向を大體その基本的な思想的立場としながら、一方揚註ニ棄されない封建的イディオロギイの殘滓をも割に多く持つてゐた此の作者は、その本來的な立場の榎塞に苦惱するとともに、その內包する矛盾にその苦惱を煽られて、半ば狂氣する迄の昏迷に陷つた結果が、俳諧的な笑ひや低何趣味にと遁れ去つたのであつた。彼の主張した低回趣味や非人情主義は、主張其物としては、人生の苦惱をも詩化することによつて美的享受の對象化しようとするものであつたけれども、此期の作品は、さうした苦惱を厭ふあまり、した苦惱其物の美的享受といふより、寧ろ苦惱を切棄てゝ主觀的に構築された詩境に遊ばうとするものになつてゐた。だから苦惱は作品の背後にあるものとして考へられるだけで、作品其物の直接傳へるものは、明るくノンキな詩情に登2過ぎなかつた。

 それが若干變つて來たのは、第二期の作品に於てゞあつたと思ふ。第二期として考へられるのは、四十年一月の「野分」から四十三年三月以降の『門』までの時期である。此期にも亦「餘浴ある小說」の主張などが發表されてゐるだけ、低回趣味や非人情主義への態度はなほ强く持續されてゐたのであつたけれども、其處では同時に第一期の場合とは異つた、リアリティへの親近が意圖されてゐたのである。と云つて不可ければ、同じ非人情主義ではあつても、苦惱を切棄てゝ主觀的に構へられた詩境に遊ばうとするのではなく、苦惱其物をも詩化することによつてこれを美的享受の對象化しようとする、云はゞ第一期には考へられてゐながら實現されてゐなかつた態度が、確實に認められるやうになつて來てゐるのである。

 だから其處では、漱石本來の思想的立場である人間尊重や主我的自由主義が正面に押出されて、さうした立場が現實的に如何に壓歪められてゐるかゞ一通り問題とされながら、同時にさうした相剋に絡む陰翳や詩情が出來るだけ十分に娯しまれようとされてゐたのであつた。白井道也の「人格主義」(野分)、甲野さんの「まこと」(虞美人草)、代助の「主我的個人主義」(それから)、等等、さういふものがすべて壓歪められてゐる人生の味ひを娯しむ-さういふ態度が認められたのであつた。その、一方には憤りながら同時にこれを娯しまうとする矛盾(或は不自然さ)が、此期の作品を、變に强調的にも、作爲的にも、またブッキッシュにもしてゐたのであつた。

 が、さうして矛盾を糊塗しようとする强調や作爲が續けられてゐる間にも、流石に當面の苦惱が對象となつてゐただけ、漱石の非人情主義は漸次的な修正を經なければならなかつた。「娛しむ」といふ安易さから、「諦める」といふ悲痛さに向つて。本來的な思想的立場の壓歪められてゐる現實相を問題としながら、なほこれを娛しまうとしてゐた心の構へが、例へば「それから」などに示されてゐる程さうした問題に深入りして行くにつれ、漸次にさうした現實相の息苦しさに壓倒されて、諦めるより他に娯しめない現實世相であることが、漸く明瞭になつて來たのである。それは實感的把握といふより多分に論理的推究の結果といふ趣を示してはゐたけれども、― と云ふより、漠然と實感されてゐたものが思索的に突詰められたと云つた方がいゝかも知れない。主情的に感じられてゐたものが主知的に明晰化されるにつれて、實感も愈々動きのとれぬものになつたといふ趣なのだから。― 兎に角さうして當面の問題への推究が深まるにつれて、「娛しむ」などゝ安易なことの云つてゐられぬ現實世相の息苦しさであることが、明瞭化されて來たのだと云へよう。

 憤つても效のない程重苦しい現實世相であることを考へ出すにつれて、憤る氣持の張りをも喪ふと同時に、構へて娯しまうとする主觀的擬勢をも、或はそれを敢てする精神力をも失つた-そんな風にも云へるであらう。非人情主義とは大分ズレた「門」の諦念の世界が、かうして考へられるやうになつたのである。それは無論消極的な、敗北したものゝそれであつたけれども、兎に角境地として深いものであるだけ、その世界を知つた後の漱石は、「虞美人草」などの强がり意氣込んだポーズを自ら嫌ふ人ともなつて行つたのであつた。

 所詮此の第二期は、漱石本來の思想的立場と現實世相との相剋が取上げられて、其處に非人情主義から脫落的諦念への移行が結果した時期であつたと云へるのである。第三期は、さうした第二期の延長線上にあつて、さうした脫落的諦念を必至のものとせざるを得ない現實相を、出來るだけ仔細に究明してみようとする、さういふ意味での寫實的傾向の時期であつた。

 との間に修善寺の大患を置いて、四十五年の一月から彼岸過ぎまで書續けられたといふ「彼岸過迄」は、つまり此の第三期の出發を語る作品であつたのである。だからそれは、云はゞ第二期の囘轉軸とも云ふべき「それから」と相似、且つ「それから」から「門」への展開相と云ふより寧ろ「それから」を中に挾んだ三部作「三四郞」「それから」の展開と相似た展開を持ち、それに寫實的精到さと其處から來た若干の新しいものとを添へた作品になつて居り、それがまた此の漱石第三期の作品構成の一つの典型ともなつてゐるのである。

 さうした點が、此作の、漱石行程中に重要な地位を占めるものとして、重視されねばならぬ所以なのだと思ふ。が、とすれば、さうした意義のうち最も重要なものである寫實性は、此作の場合、果して何處から來たのであらうか。よく云はれてゐる自然主義の影響も無論考へられる。苦惱を切棄てた明るい詩境から漸次卽實的に傾いて來た作者の步みの必然的な發展と云つても、一應は說明出來る。非人情主義や低御趣味の代りに脫落的諦念を必至のものとせざるを得なかつた現實相に對して、新に抱かせられた疑惑からと云つたら、殊によく理解されるかも知れない。と同時に、あの作の構造がそれを必至のものとしたのだと云つても、必しも突飛に過ぎもしなからうと思ふ。周知の通り、「彼岸過迄」は、相互に脈絡のある數箇の短篇を積重ねることによつて、一篇の長篇小說を築かうとする意圖の上に成つてゐる。それは恐らく漱石に於ける俳諧連句の素養などが創案させた形式であつたらうと思ふ。

 無論今日から見ればそれももう決して珍らしい技巧ではあるまいけれども、當時とすればそれはかなり目新しい技巧であり、我國の近代文學に一つの新しい技術を齎らしたものとさへ時に云はれてゐる。それだけ此作の技巧的なものであつたことが云はれる譯だが、然も一面から云へば、それは、その題名の示してゐる通り、さしてかつちりした豫定もなくて然も所定の時間を書繼がねばならぬための、苦しみが產ませた技巧であつたのである。

 だから此作には、從來の漱石作に認められた程の緊密な知的統整や、拔き差しならぬ程びつちりした作爲的な組合せは認められなかつた。、「それから」のやうな、彼自身にとつて最も根本的な題目であつた筈の主我的自由主義と現實社會生活との齟齬を取上げた作品にあつてさへ、自然の大河ではなく、大河に劣らぬ廣さと複雜さとを孕みながら結局人間の掘割つた運河に過ぎない、と評されねばならなかつた漱石作の觀念性が、此處ではそれだけ稀薄にされてゐるのである。初中期の作品を通してゞは到底豫想されさうもなかつた寫實主義的傾向は、かうして自然彼の新しい傾向として現れはじめることになつたのではないか。

 豫定された筋書をひた向きに追ふのでなく、各部分の自然と實相とに相當ゆつくり低何するといふ形に於て、さう考へると、此の新しく工夫された「彼岸過迄」の比較的ルーズな構成が、そのルーズさ故に、自然寫實的傾向をも多く孕み得ることになつて、其處に寫實的傾向を最も重要な特徵とする第三期の作風が自ら打樹てられることにもなつた―そんな理由が上記樣々の理由と併せて考へられるのではないか 思思のである。

 が、それは何れにもせよ、さうして寫實主義に傾き、實相探究に方向を取つた漱石が、旣に人生に對する一つの結論を持つ人であつたことは、此の場合特に注意されねばならない。若々しいロマンティシズムに醉うてゐた三四郞は、美彌子の戀人でも夫でもあり得ない― さういふ資格を持ち得ない夢の世界の住人である點で、現實社會を食み出した人間でなければならなかつた。

 さういふ自分の社會的位置を明瞭に意識しながら、猶且つ自己を生き通さうとした代助は、結局社會や肉親とさへ正面衝突しなければならなかつた。その衝突に打碎かれた宗助は、去勢されたやうな屬々しい生活から、更に禪による精神的な救ひにまで縋りついて行かねばゐられぬ人間であつた。明治末期に於ける主我的自由主義者の生活が、結局さうしたものでなければならぬことを、旣に漱石はその三部作に於て明瞭に書いてゐたのである。

 彼の人生觀には既にさうした結論が出されてゐたのである。だから「彼岸過迄」に於て新な寫實と人生探究とを方向とはしても、それが結局その結論を周到に跡づけるための、現實注視であり人間解剖である以上のものとは成り得て行かなかつたのである。其處に漱石の寫實主義の限界があつた譯であり、寫實を方向とした「彼岸過迄」も、つまりは大きく枠を張られたものゝ中で、細かく分析解剖するといふ、さういふ性質の作品とならざるを得なかつたのであつた。

 彼の第三期の作品が、總じて卽實的傾向を著しくしながら、根本的にはなほ主知的な筋立てと豫定されたやうな題材の配列との上に構成されたものとしての趣を持つてゐたのも、無論此の「彼岸過迄」に認められたものゝ直接の延長に過ぎなかつたのだと思ふ。その代り、さういふものであるだけ、「彼岸過迄」には、明治末期のインテリゲンチア乃至主我的自由主義者の置かれた社會的な位置と、其處から感得させられた彼等の焦慮や苦悶が、隨分鮮かに摑み出されてゐる。

 それが旣に「それから」中心の三部作に一通り旁髴させられたものではあつても、それを更に集約的に、且つ卽實的に表現して其處に第三期の出發點を踏固めてゐるところに、あの作の新しい意義が見出されるのだと思ふ。

 次にはその點を少し立入つて檢べてみよう。元來あの作は、敬太郎といふ大學を卒業したばかりの靑年を主人公として、彼が就職運動中に見たり聞いたり經驗したりした人生の相を、逐次に繰りひろげて見せるといふ形のものになつてゐる。さうして作の「結末」には、こんなことが書かれてゐるのである。

 彼の知らうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼は遂に其中に這入つて、何事も演じ得ない門外漢に似てゐた。彼の役割は絕えず受話器を耳にして「世間」を聽く一種の探訪に過ぎなかつた。

 三四郞と相似た「迷へる羊」がさうした敬太郞の述懐の裡に髣髴されぬであらうか。所謂閉塞された時代の、扉の外側に茫然としてゐたインテリゲンチアの姿が、其處に見出されるのである。彼は命ぜられるまゝに何のためとも知らず下等な探偵類似の所業まで敢てしたゝめ、忠實な僕としての職場は與へられたけれども、それ以上動いてゐる人生に參加することは出來ず、結局傍觀者として、社會的な動力からは浮上つた存在でしかあり得なかつたのである。

 彼は盆槍して四五日過ぎた。不圖學生時代に學校へ招待した或宗教家の談話を思ひ出した。其宗教家は家庭にも社會にも何の不滿もない身分だのに、自ら進んで坊主になつた人で、其當時の事情を述べる時に、何うしても不思議で堪らないから斯の道に入つて見たと云つた。此人は何んな朗らかに透き徹る樣な空の下に立つても、四方から閉ぢ込められてゐる樣な氣がして苦しかつたのださうである。樹を見ても家を見ても往來を步く人間を見ても鮮やかに見えながら、自分丈硝子張の箱の中に入れられて、外の物と直かに續いてゐない心持が絕えずして、仕舞には窒息する程苦しくなつて來るんだといふ。敬太郞は此話を聞いて、それは一種の神經病に罹つてゐたのではなからうかと疑つたなり、今日迄氣にも掛けずにゐた。然し此四五日盆槍屈託してゐるうちに能く能く考へて見ると、彼自身が今迄に、何一つ突き拔いて痛快だといふ感じを得た事のないのは、坊主にならない前の此宗教家の心に何處か似た點があるやうである。(第二章「停留所」)

 自我も個性も自由もすべて壓伏されて、時代的閉塞の中に萎縮させられてゐた人間の姿が、こんなところにも見出されるであらう。それは動き方によつては、「高きより飛下りる如き心もて」と云つたあの啄木の心境などゝも、直ちに連つて行く筈のものであらう。が敬太郞は、さうした激發に赴く代りに、さうした心境的な行詰りを打聞するため、「占ひ」に賴らうとするのである。生の方向を見失つたものゝ昏迷が、神祕や怪力亂神に賴り傾かうとする形である。然も「占ひ」は、彼の前に、道は二つあるけれども、何方に行つたところで「まあ同じですね」と云つで濟ましてゐるのである。何う動いたところで結局傍觀者的な立場以上に「突拔け」ては行かれぬ敬太郞を占ふ語として、最も重く響くものであらう。

 此期まで來ても克服されなかつた漱石の遊戲性は、この占ひを敬太郞と同じ下宿にゐた人間の殘して行つた洋杖などゝ結びつけるつまらない才氣をも示してゐるが、彼が當時の知識人の置かれた社會的地位を明瞭に掴んでゐたのであつたことは、こんな點からもよく知られるのではないかと思ふ。

 さういふ知識から、彼は敬太郞に職を與へて、一應社會的秩序に織込まれさせながら、結局傍觀者以上の役割は持たせなかつたのである。その意味で、「彼岸過迄」の寫實主義は、當時のインテリゲンチアのシチュエーションをはつきり寫しとつて見せたものとして、まづ高く評價されていゝのである。が、それは「彼岸過迄」の最も主要な覘ひ所とは云へなかつた。それと繋りは無論あるにしても、あの作の主要な覘ひは、つまりさうした傍觀者としての位置に置かれた人間の觀た、現實人生の相と其處に住む人間の生活との描敍にあつたのだから。

 だから敬太郞は、主人公とは云ふものゝ、實際はあの作に於ける一種狂言廻し風な、端つこの役割を果してゐる人間に過ぎなかつたのである。とすれば、其處で彼の觀た人生と其處に住む人間の生活とは、果して何んなものであつたのか。彼はまづ同じ下宿屋にゐた森本の口を通して、ロマンティックな空想の斷片を聽き、その後の彼の半放浪的な生活を通して、社會の秩序と常道とに從順でない人間の慘めに堕落して行く過程を觀た。さういふ森本は、新しく社會の秩序に織込まれて行かうとする敬太郞にとつて、對蹠的な存在であると同時に、結局その秩序の中に融込み得なかつた敬太郞の、半面の肖像畫でもあつたのだと思ふ。

 だから彼は森本の無拘束さに或る反感を覺えると同時に、彼の持つロマンティシズムや其處に感じられる爲人には、相當强く惹きつけられて行つたのであつた。然もその森本の示したロマンティシズムは、何といふ空虛さと淺薄さとに充たされてゐたことか。「其斷片は輪廓と表面から成る極めて淺いものであつた」と敬太郞自身も考へてゐる。秩序に從順でないものが顕落とうらぶれた放浪との他に生きる道のない人生は、つまり健常で雄大なロマンティシズムの苗床でないことが、其處に觀察されてゐるのだと云へよう。

 深く大きなロマンなど成長する譯もない程重苦しく窮屈に壓詰められた人生― さう考へられてゐるのだと云つてもよからう。作者の暗い人生展望が其處にまづ露頭を示してゐるのである。

 さういふ暗さを觀た敬太郞は、必然的に社會の秩序に織込まれることの必要を痛感して、さてこそ侮辱されたやうな、意味も解らぬ探偵類似の行動にも就いたのであつたが、その結果として、其處に二つの生活者のタイプを見出した。世と倶に動いて、始終用心と警戒とを怠らぬながら、極めて關達に生きてゐる田口と、それとは對蹠的な、世俗を棄てゝ自己に安心立命してゐるが故に、自由で拘束のない解放的な態度に生きてゐられる松本との。彼はインテリとしての性格から後者に親しみを感じながら、社會機構に織込まれようと望みつゝある現在の條件から、却つて前者に畏敬を感じた。と同時に、彼等の示した關達と解放との何れにしても、「突拔け」た愉快さを味ひたかつた敬太郞にとつては、望ましい到達境であつたのである。

 が、彼は、さうした到達境への道を直ちに教へられる代りに、あまりにも脆い人間の命數を悼んだ「雨の降る日」(第四章)に於て、田口の娘千代子の口から、「悲哀を出來るだけ長く抱いてゐたい意味から出る淚」をじつと味つてゞもゐるより他に、何うにもならない人生の斷面があることを語られたのであつた。明るい「到達」を望んだ彼は、つまり逆に、タイブなどゝいふものを乘越えた、絕對的な、しかも悲觀的な境地の嚴存する人生であることを教へられたのである。

 作者の悲觀的な人生展望が此處らから漸くその悲觀色を濃厚にしはじめたのであることが知られるであらう。けれども、それが敬太郎の觀た人生の結論なのではなかつた。彼は更にそのさきに出て、千代子と許婚のやうな關係にあつた。「須永の話」を聽いた。須永は何方かと云へば松本型の、けれどもより多くは代助型の、現實生活の秩序に織込まれて行かうとするより、寧ろ惡時代の表面から退いて自我と自由とを護らうとする人間であつた。それだけ個性と自我と自由主義とに忠實な、近代的知識人であつたのである。

 半ばその許婚である千代子も、極めて純情的な、云換へれば自己の感情に忠實な、それだけ慣習的な規矩や尺度に拘らない、解放された女性であつた。つまり須永と同じい自由主義國家の住民であつたのである。然も二人は相互に愛し合つてゐた。にも拘らず、自由人らしい冷靜な判斷を持つ須永は、千代子と結婚しようとは思はなかつた。千代子も亦それを明瞭に知つてゐた。何方にも溺れ切つて盲目になる程の自我の抛棄がないのである。

 さういふ人間同士の、云はゞ新時代的な戀愛を捉へてゐるところにも、旣に「須永の話」の優れた歷史的價値が見出されるのだと思ふが、それは兎に角、さうした戀を生きてゐた二人の間に、一人の男性が現れて、その爲め二人の間に或る破綻が來た時、結婚する意志もない癖に嫉妬する矛盾を銳く突込却つて自家の下婢に强い愛着を感じさせられたのであつた。

 一筆がきの朝顏のやうに簡素な、そして主である須永の命に之随ふを本務と心得てゐるやうな下婢に。

 一筆がきにも似た簡素さを愛する須永は、千代子を愛しながら、彼女の解放された人間らしい關達さや奔放さ、乃至は其處から來る刺戟の强さと複雜さとに、たへ切れない自分であることを知るが故に、彼女との結婚など考へてもみようとしなかつたのであつた。

 と同時に、さうした解放された自由人としての女性と、夫を「主人」として隷屬的な關係に廿んずべきものと考へられてゐる「妻」の概念とが、此の自由人須永の場合にも、一致するものとはなり得てゐなかつたのである。

 だから彼は千代子と爭つた後では特に從順な下婢に强く惹かれて行きもしたのである。然も避け難く戀人に惹きつけられる「煤煙」の女主人公眞鍋朋子が、自主的な生を生き通すためには戀人をも却けねばならぬとし、自分を男性(戀人)への隷屬から護るためには、死を以てするより他に道がないと觀じた時代の現實が、此處にも徵一見徹底した個性的自由主義者であるらしく見える須永も、さういふ時代の子ならず反映させられてゐるのである。として、白分自身の個性とゝもに、千代子の自我をも愛し育てるといふやうな、さういふ意味の愛を、夫婦といふ關係と一致させて考へることは、到底出來なかつたのである。さうしてそれは無論さうした戀愛に於てのみ現れる主我的自由主義者の自己破綻であつたのではなかつた。軈て彼の對人生關係の全部を被ふものでなければならなかつた。

 彼は然く自我を愛することを知つて、然も他の自我を愛することは知らなかつたが故に、他との融合なり親和なりを味ふことが出來ず、結局社會的な紐帶を見失つて、限りない孤獨の底に沈まざるを得ず、ひいて絕望的な厭世哲學に沈湎せざるを得なかつたのであつた。「彼岸過迄」以後の漱石作品に於ける最も主要な題目の一つであつた孤獨感と寂寥の物狂はしさとは、辿つてみればかうした根柢から生れて來たものであつたのである。

 近代的な自由人らしい思想傾向を多分に持ちながら、然も自由主義や個性主義への周到な理解を持つには些か「舊い人」であり過ぎた漱石はつまりは須永市藏と相去る餘り遠い人ではなかつたのではないか。

 だから彼には須永の孤獨感や寂寥感が其後何時までも捨てられぬ題目となつたのであらうが、さうした孤獨觀や寂寥感が、退いて護らねば個性や自由の生きられなかつた時代の、自由主義者や個性主義者の被壓迫感と綱合された時、其處に進むも退くも出來ない絕望の世界が展望されるであらうことは、容易に考へられるところであらうと思ふ。

 少からずごたごたしたかと思ふが、「須永の話」は、要するにさうした意味での、明治末期の自我的自由主義者が味つてゐた被壓迫感と、それから孤獨感と寂寥感とを、凝集的に表現して見せたものであつたのである。

 然も離れてそれを觀る代りに、さうした世界の中に生きてゐた作者は、それを軈て人生の全相だと觀じてゐたのである。作者の人生展望は、此處まで來ると、當然絕望的な悲觀に塗りつぶされなければならなかつた。事實また其處には、美しい女を見ても直に骸骨を連想するといふやうな深刻な厭世哲學が、作品の基調として力說されて居たのであつた。壓迫され半產した自由主義と、それ故に溷濁した自我主義とをしか持ち得なかつたインテリゲンチアの歪んだ世界が、其處に徹底的に掬ひ取られてゐるのだと云へよう。敬太郞は此處まで來て、そのやうに歪められた、と同時に孤獨な人生と、其處から生れる深刻な厭世哲學とを教へられたのであつた。

 「雨の降る日」に描かれた死は、如何にも傳く悲痛なものではあつたけれども、其處にはまだしも「悲哀を抱」きしめたいやうな、「悲しい涙」を何時までも味つてゐたいやうな、要するに悲痛の美を娛しむといふ、そんな救ひ(甘美な境地)が殘されてゐた。此の歪められた孤獨地獄は、その中に住む者にとつて、詩も歌もない、恐らく狂氣以外何ものもない世界であらう。

 愛するものとの結びつきが社會や肉親との衝突に終つた「それから」の世界は、此處では更に愛しながら愛し得ない者の地獄の苦痛とまで發展させられてゐるのである。須永と同じ世代の知識人である敬太郞は、かういふ人生を突きつけられて、松本や殊に田口の濶達さなどゝは、まるで緣なき衆生であることを知らされたやうなものであつたのである、けれども、人間を愛すること深かつた作者は、これを矢張り入生のどん詰りとはして置かなかつた。と云つて、さうした地獄の根柢にある問題を、銳く摘發是正することの出來る作者ではなかつたけれども、然し乍ら彼は既に「門」の世界を知つてゐた。松本の世界の拘泥なき自由さを知つてゐた。だから彼はさうした地獄を人生のどん詰りともしなければ、さうした地獄のさきに狂氣をも破滅をも結果させはしなかつたのである。

「須永の話」の後に「松本の話」をつけ加へた作者は、さうした孤獨と懷疑との虜となつた須永を、更にその母からも引離して― 彼が彼女の子ではなく、今は生死も知れない女の云はゞ不義の子であつたことを明かにして、彼を益々孤獨の底に突落した後、其處から更に「考へずに觀る」といふ境地に浮み上らせることによつて、其處に靜に調和された世界のあることを明示してゐるのであつた。

 敬太郞は、さうして孤獨地獄と厭世哲學との先に、さういふ救ひの境地のあることを知らされてゐるのである。それは無論孤獨地獄や厭世哲學の正しい解決にはなつてゐない。寧ろ解決の抛棄― と云つて不可ければ問題の抛棄であり、從つて主觀的な飛翔以上の何ものでもない。

 或は問題の知的な追及と合理的な解決とを棄てゝ感覺的な世界に逃れ去つたものと云つてもよからう。正しい解決は、少くともより徹底した個性主義乃至自由主義への把握による、さうした孤獨地獄の根本的な歪みの除去によつて、齎らされねばならぬのであらうと思ふ。

 その場合、須永は千代子の個性と自由とを認めて、從つて理解と協和とはあつても支配と隷屬とのない、さういふ意味での愛を紐帶とした生活を築き上げる― さういふ道を步まねばならない.漱石から出發した白樺派の人々が當時既にさうい魅ちふ道を意識的に追求してゐたやうに。

 でなければより根本的に、個性主義なり自由主義なりを根柢から打破つて行かねばならぬところであらう。それを、その何れをも方向とせず、千代子も母親も置いてきぼりに、須永一人の主觀的な救ひを齎らして、さうしてそれをよしとしてゐるところに、漱石が、個人主義思想といふものを正しく周到には理解せず、これを單なる爲我主義としてのみ受取つてゐたのであつたことが知られると同時に、その思想的立場を最後まで抛棄出來なかつた人であつたことも、また知られるのではないかと思ふ。

 その思想的立場を補正するか、或はそれを抛棄するか、その何れかゞ出來たら、漱石はもつと社會に卽して積極的なモラルの提示に熱するか、でなければより清澄な宗教的超脫に行つた筈で、「考へずに眺める」― 云換へれば、安全地帶にゐてなほ危險區域に執着するといふにも似た、そんな貌に止まる筈がなかつたのだから。

 さういふ情熱と情熱に徹する貌が彼には確にあつたのだから。さう思はせるだけ、「彼岸過迄」の結末は、それまでの材料の展開を締括るに足りない、極めて不安定なものとならざるを得なくなつてゐるのだと思ふ。

 が、さう云つても、それは或は漱石歿後二十年の今日にして云はれる感想で、個人主義思想のまだ極めて不熟だつた。隨つて歪み偏つたそれをその全部と思ひ込むのが常識であつたやうな當時とすれば、その結末への發展にも、種の必然さが感じられぬことはないのであり、孤獨地獄の昏迷に崩折れた心が、さうした「考へずに觀る」感覺的享受に救ひを見出して行つた過程は、多くの自然主義作家をもこめて、自然主義時代以後の文學の多くが辿つて行つたものであつたのだから、其處に當時の時代氣運の少くとも一面の反映が見出されるのは、云ふ迄もないのである。

 敬太郞と一緒に、讀者は其處に、孤獨地獄に追込まれた當時の主我的自由主義者の多くが、軈てさうした主觀的飛期によつて、それこそ個人的な救ひにのめり込んで行かずにはゐられなかつた世相を、端的に窺ひ知らされるのである。寧ろさうした救ひを必至のものとした程、不透明で、其上暗く壓歪められてゐた當時の個人主義者達の世界を、如實に然も深々と反映するものとして、此の「彼岸過迄」の寫實が推重されていゝ位のものなのかも知れない。

 兎まれ、敬太郞の教へられた人生は大體上記のやうなものであつた。その終結まで行つた時、須永は結局松本と同じタイプの生活者であり、從つて敬太郞も亦嘗て仰ぎ見た二つの型のうち、松本風のそれには到達し得るのであることを知らされたやうなものであつた譯だが、其處まで來ると、さうして許された到達境が、はじめから入込み得なかつた敬太郞の世界と、結局相似たものになつてゐることに、氣づかれぬであらうか。

 當時の自我主義者が彼等の思想的立場を補正してより徹底させるか或は全然抛棄するかせぬ以上、所詮それが免れぬ運命であつたのであらうが、此處まで來ると、何う歩いたところで結局「まあ同じですね」と云つたといふ「占ひ」の言葉が、殊に强い響を以て再び聞えて來るだらう。入り得ないでゐても、脫却して行つても、煎じ詰めれば同じやうな、扉の外から離れて眺めてゐる自由主義的インテリゲンチアの立場だつたのである。此作の「結末」に、

 森本に始まつて松本に終る幾席かの長話は、最初廣く薄く彼(敬太郞)を動かしつゝ漸々深く狭く彼を動かすに至つて突如として巳んだ。けれども彼は遂に其中に這入れなかつたのである。其所が彼に物足らない所で、同時に彼の仕合せな所である。彼は······(中略)······大きな空を仰いで、彼の前に突如として已んだ樣に見える此劇が.是から先何う永久に流轉して行くだらうかを考へた。(傍點片岡)

 と書いて筆を投じた作者は、さうした點を摑んで、それによつて此作としては二義的な側面とも見える敬太郞の世界と、より主要な彼の見聞した世界とを結び合せ、それによつて當時のインテリ乃至主我的自由主義者の世界を全圓的に浮び上らせようとしたのではなかつたかと思ふ。

 それは、前にも云つた通り、「三四郞」から四までの三部作に於て旣に大體語られてゐたものではあつたけれども、かうして集約的に、且つ一層の徹到性を以て描き出されてゐるのを觀ると、其處にまた新な價値が見出されていゝことになるのではないかと思ふのである。と同時に、上揭最後の文章を觀ると、作者は敬太郞の、人生に「這入れない物足らなさ」から、「這入れない仕合せ」と幾らも變らぬ「脫出たものゝ仕合せ」に連る、苦しく惱ましい人間的營爲が、永久に輪廻流轉して行くのであらうことを思つて、其處に限りない味嘆を寄せてゐるのであることが、朧ろ氣ながら推定されよう。

 『門』の結末に、「又ぢき冬になるよ」と味嘆した作者が、さらに一層全圓的な(と彼自身信じた)世相諦視の後のかうした諦觀から、結局あるがまゝを肯定して流轉を娯しまうとする「則天去私」の境地へと意志する人となつた形も、其處に後ながら窺はれるのではないか。

 寫實的態度確立といふ點とゝもに、さういふ點から云つても、此作には漱石第三期の發端らしい趣が見出されるのだと思ふ。

 以上要するに「彼岸過迄」は、作者の新にとつた寫實主義的態度の上に立つて、明治末期のインテリゲンチアの世界を究明したものであつたのだが、それが既に輪廓的には一應知られてゐる世界であつたゝめに、その展開が、何時不知嘗てその世界を輪廓づけてみた三部作と、同一型式を鑄直したゞけのものとなつて了つたのであつた。

 敬太郞の世界と三四郞の世界、須永と代助、松本によつて語られた須永の到達境と宗助の境地、それらのものゝ結びつけ方、と考へると、其處に少くともかなり近似した重ね寫眞が見出されるだらう。漱石の人生觀が『門』までゞ大體決定的なものになつてゐたことが、つまりはかうした結果を齎らしたのであり、彼の晩年の寫實が、前にも云つた通り、旣に解つてゐるものをより細緻に分析するといふ、さういふ性質を帶びるものとなつて行つた所以も、無論其處にあつたのである。然も、此の「彼岸過迄」に於て、さうした分析や究明が上記の如く周到に盡されたのみならず、その分析や究明の結果として產出された諦觀が、漱石の脊負つてゐた時代的社會的制約から云つて、一種必然的な歸結とも云へたゞけに、其後の漱石の作品は、結局「彼岸過迄」的なものを脫却することが出來ず、それが出來た時にはまた「彼岸過迄」の結末に暗示されてゐた境地と、或る程度接近したものを感じさせることになつて了つたのではないかと思ふ。

 例へば、「彼岸過迄」に續いて作られた「行人」は、「彼岸過迄」の孤獨地獄苦を、もう一度更に强調的に描いたものに過ぎなかつた。それが二番煎じであるだけ、無理な事件の進行を作つてまでも題目を强調しようとしたり、主人「被岸過迄」の主人公一郞を須永以上の半狂氣にも連れて行つたりしてゐるけれども、其處に特に云ふべき程の新しい要素は加へられてゐなかつた。最後に主人公が旅行に連出されて、離れて生きることに安住境を見出して行く運びまで、それこそ完全に「彼岸過迄」-殊に「須永の話」から「松本の話」へかけての部分の、透寫しのやうになつてゐた。

 のみならず、松本に相當する友人だけでなく、敬太郞に匹敵する弟の二郞を點出して、彼にも矢張り狂言廻し風な、動く世界の外側に立つ人間としての役割を果させてゐるなど、益々二番煎じの趣を濃くしてゐる。

 たゞ主人公を半ば狂氣するところまで追詰めてみたゞけ、離れて考へずにの諦觀が、作者にとつて愈々必至のものと考へられるやうになつだらうことだけが-つまり同じ解決をより强く信ずる氣持になつたらうことだけが、異つて感じられるに過ぎなかつたのである。だが、さうしてさうした方向への諦觀が愈々必至のものと考へられるに及んで、漱石にも若干の反省が來たらしい。

 「行人」の次に出た「心」に於て、彼は飜つて孤獨地獄苦に惱む自我主義者の相を檢討しようとする態度を示したのである。さうして周知の通り彼は其處に爲我主義の醜さを見出したのである。反射的に彼は愛を― 道德としての愛を思ふ人であつた。それが先生の細君に對する態度に現れてゐる。が、それは贖罪的な奉仕である反面、矢張り牝鶏をかばふ雄鷄の本能以上に、若しくは上から下をいたはる愛以上に、多くは出ないものだつた。

 あの作の細君が、何と可憐な「人形」に過ぎなかつたことか。眞相を知らせて、さうして細君の獨立した判斷の後の行動として新しく主人公と結びつかせるといふやうな、個人主義的自覺の上に立つ愛は、矢張り漱石には摑めなかつたのである。

 爲我主義の醜陋な面だけを觀て、さうした個人主義の光明面を見出し得なかつた漱石は、當然孤獨地獄苦に更に一步を進めた、「獨り」さへない虛無を思ふ人となり、從つて「考へずに眺める」よりもう一段高い虛無に浮んで、一切を同一平面に眺めようとする態度に邈出するより他仕方がなかつた譯である。云はゞ「彼岸過迄」の世界より一步進展して、その結末に朧ろ氣に語られてゐた境地に、今こそ確に脫出すべき漱石であつたのである。それは「考へずに眺める」より一層深い境地であつたけれども、結局は同じ方向の、最後的な到達境であつたゞけに、「彼岸過迄」の場合にも朧ろげながら豫想されてゐたものであつたのである。だからごは、「行人」と異つて、「彼岸過迄」に更に一步の進展を加へるものではあつたけれども、矢張り「彼岸過迄」の延長線上にあるものとして、必しも飛躍的なものとばかりは云へないのである。

 此作にも、敬太郎や二郎に相當する弟の二郎が點出されて、彼にもやはり狂言廻し風の動く世界の外側に立つ人間としての役割を果たさせてゐるなど、愈々二番煎じの趣を濃くしてゐる。(中略)

 それは兎に角、かうして「彼岸過迄」の結末に暗示された境地をはつきりと意圖しはじめた漱石は、更にもう一度描きなれた孤獨地獄苦と爲我主義の醜さとの絡み合つた救ひのない現實相を注視して、傑作「道草」を產んだのではあつたけれども、それはもう漱石にとつて所詮無用の「道草」に過ぎなかつた。

 その表題などから考へても、彼はもう只管に明暗一如の「則天去私」の境地を期する人であつたことが、十分に知られるのであらうと思ふ。「こころ」まで行つて彼が完全に「則天去私」を思ふ人となつたと考へられる所以である。と云つても、彼が十分さうした境地に到了したと云ふのではない。さう云ひ得るには「明暗」はまだ餘程漱石的な好みや作爲の多くを殘してゐる。つまりが「私」が拂拭しきれてゐないのである。

 それを意圖し、又それに向つて或る程度近づきながらも、漱石は結局其道を皆歩みきつたとは云へないのである。それだけ彼の自我が强大だつたとも考へられる譯であらう。が、さうした晩年の作品や境地を一々檢討するのは、無論この小稿の意圖したところではなかつた。此處にはたゞさうした晩年の境地が、すべて「彼岸過迄」のそれから直接的に發展して來てゐるのであることを一應說明すればよかつたのである。

 それによつて此作の漱石作中に占める位置の重要さを一層明かにするために。要するに此作は、當時として進歩的な、時代思潮の積極的側面を語るものではなかつたまでも、少くとも一般知識階級人の生活相と、その根柢にあつた矛盾と、さうした矛盾故に解決ならぬ解決を必至のものとするに到つた過程とを、精緻に描破してゐるものとして大きな意義を考へさせる― それは個人主義が少くとも觀念的には餘程周到に明確化された筈の今日の讀者にとつても、或る程度當面現實的な問題を提示してゐぬものとは云へまいと思ふ-とゝもに、漱石作中でも特に重視さるべき第三期寫實主義時代の作品を理解すべき重要な鍵となつてゐる點から云つても、相當注意されていゝ筈の作品なのである。

 それは單なる第三期の發端に位置するだけのものでなく、その基調と從つて其處に絡む根本的な問題とをまづ提示したものであつたのだから-。

[出典]『近代日本の作家と作品』片岡良一 著岩波書店 1948年

[谷崎を論じて見ろよ]

 長い、諄い、まとまりがない。明治末期のインテリゲンチャとか近代的自我とか、そういうキーワードは本当にどうでもいいけど、そういうことを書くんなら、真正面から谷崎潤一郎の初期作品を論じてみて欲しい。

 まあ、その前に『行人』のあらすじも解っていないし『こころ』に関してはほぼ読めていない。

 『彼岸過迄』の肝はそのスタイル、田川敬太郎の意識を通して須永の話を聞く、

 何層もの意識に潜らせる「読ませ方」にあると言っても良い。結果として『彼岸過迄』ではそれが成功したとは言えないまでも同型の作品である『行人』と『こころ』でこのスタイルは見事に完成した。

 先日明治時代の紳士録みたいなものを見ていたらそこには「平民」と「士族」の区別が明記されていた。そこにはおのずと区別があったということだ。漱石は記録上は飽くまで北海道の平民。ただし意識としては清和源氏に連なる士族。明治末期のインテリという言い方は確かに可能ではあるけれど、『それから』の代助は士族だよね。そのあたりのことを解って書いているのかな? 

 漱石は弓の稽古もしていましたからね。

 気持ちは士族ですよ。


    太刀佩くと夢見て春の晨かな

 なんて句もありますよ。

 それにインテリゲンチャってそもそもドイツ語だけど露西亜の階級を意図して使っていないかな。漱石作品を読むのに、マルクスとフロイトは持ち出し厳禁というのが私の持論で、この片岡さんの論もマルクス臭がして駄目だな。

 そもそもこの「明治のインテリゲンチャ」理論が嵌るのはほぼ漱石のみで、泉鏡花にも、芥川龍之介にも菊池寛にも谷崎潤一郎にも永井荷風にも当てはまらない。谷崎潤一郎も「明治のインテリゲンチャ」なんだけど。

 何か一生懸命いいことを書こうとしているけれど、第三期寫實主義時代なんて書いちゃだめだ。

 『道草』は写実ちゃうなあ。









因に云ふ、夏目漱石先生はずつと後から私が强ひてツルゲーネフやドストエーフスキを讀ませてあげたのである。(『のんびりした話』森田草平 著大畑書店 1933年)


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