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川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』のどこがこわいか? ①それはあなたの感想ですよね

何人かの作業員がやってきて、まずは塀が取り壊された。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 この作業員はすべて男性だろうか。あるいは男女混合、それとも女性だけ?

〇男性
〇女性
〇その他
〇答えたくない

 こんなアンケートフォームが二年前くらい前から現れ、性の区別があいまいになった。

 だからこれは藤子(Wisteria)と言う名前の現場監督と三人の女性作業員が織りなす、プロレタリア文学ではないかと疑ってみる。生まれたての動物が最初に見た動くものを親だと思い込むimprinting、刷り込み現象のように、「何人かの作業員」こそ『ウィステリアと三人の女たち』だと疑ってみる。しかし結局「何人かの作業員」は男便所も女便所も使わないまま、さらには一体どんな道具を使って塀を取り壊したのか曖昧なまま、藤の木を出現させてしまう。

 春になるといつも塀越しに花の部分だけを眺めていた藤の木の、全身が見えた。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 仮に黄色いショベルカーがやってくる前日、「何人かの作業員」たちが全員素手で、まるで出鱈目に煉瓦の塀に立ち向かったとするならば、藤の木をあらわにするために彼らの手は血まみれになっていることだろう。Wisteriaが藤の木ならば、現場監督の名前が藤子である必要はもうない。後は三人の女を見つければよく、作業員たちはもう「彼ら」と呼ばれても構わないだろう。

 縁側を越えて家屋にも彼らは乗り込んでゆき、そこにある家具や障子なんかをおかまいなしに押しつぶしていった。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 ここで「彼ら」を黄色いショベルカーのことだと考えてみると、たった一軒の家の解体に複数台のショベルカーが駆り出されたことになり、けしてないことではないが、なかなか喧しい。「いく」と「ゆく」を一文で使い分ける作家・川上未映子はここに「おかま」の文字列を挿入して見せるが、そこに深い意味はなかろう。解体工事のますらおぶりが表現されているだけだ。

 わたしは少し感心した。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 この「わたし」は?

〇男性
〇女性
〇その他
〇答えたくない

 宇佐美りんは「あたし」と書くが川上未映子は「わたし」と書くようだ。「わたし」がでてくれば一人称の小説の語り手で、主人公であろう。この光景は「わたし」が見ているものなのだ。

 この「わたし」は「三人の女たち」の数に入るだろうか? つまり「わたし」は他の二人の女性たちと同じように客体化され、比較し得る対象となるのだろろうか。それとも当事者として当事者について語るのか。

 わたしたちがここへやってきたのは今からちょうど六年前のことで、その家には何度か引っ越しの挨拶に訪ねたけれど、誰も出てこなかった。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 ここで「わたし」が「わたしたち」に変わり、「わたし」がこの宇宙にたった一人で漂う孤独な「わたし」ではなく、何某かの集団に属していることが明らかになる。しかし「何度か引っ越しの挨拶に訪ねた」のは「わたしたち」ではなく、「わたし」であり、「ここへやってきた」のが「わたしたち」なだけではないかという疑問はぬぐえない。解体工事を二階のキッチンから眺めて感心していた「わたし」ならば「何度か引っ越しの挨拶に訪ねた」ということはあるのかもしれないが、解体工事を二階のキッチンから眺めて感心していたのが「わたしたち」でないとしたら、その家は水回りの設計をコンパクトにまとめるために浴室も二階にあり、一階は駐車場なのではないかと考えてみる。

「お向かいのおばあちゃん、亡くなったのかな」
 夕食のときに、わたしは言ってみた。夫はテレビの画面に目をやったまま、しばらくしてから曖昧な返事をした。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 どうやら「わたしたち」とは「わたし」とその夫のことらしい。夫の曖昧な返事の理由を考えると恐ろしい。

 何故ならその「お向かいのおばあちゃん」に関しては、ほんのときどき朝か夕方にカートにもたれるように家のまわりをあるいている姿を「わたし」が目撃してただけで、毎朝八時きっかりに家を出て十時ごろ家に帰ってくる夫と「お向かいのおばあちゃん」が出会う確率は、夫とその「お向かいのおばあちゃん」が「わたし」に隠れてこっそり愛をはぐくんでいたのでないとすれば、ほぼないに等しい。つまり「お向かいのおばあちゃん、亡くなったのかな」と訊かれた夫は「お向かいにはおばあちゃんが住んでいたのか? それとも、この女は何か引っ掛けで探りを入れているのか?」と考えることになる。つまり夫が言えることは村上春樹みたいな感じで、

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。何かが起こったって言いたいんだろう。それならそれでいい。向かいのお爺ちゃんがよみがえったのかなと訊かれても僕は同じことを言うだろう。いずれにせよ、それはきみ自身の問題であって僕の問題ではない。……」

 まさかそんな長台詞はないな。「さあ」と言うだけだろうか。

 しかしここで曖昧に返事をした夫はまた明確に「僕はお向かいにおばあさんが住んでいたことすら知らない」と言わなかったという事実を見なくてはならないだろう。ここで川上未映子は曖昧な夫を作り出すことに成功している。

 十時頃、夫が帰ってくる。シャワーをあいだに作っておいた食事を温めなおす。夫はときどき嘘をつく。深夜の情報番組を見ながらビールを飲み、食べ終わるとベッドにもぐりこんで長いあいだスマートフォンの青白い画面を見つめている。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 川上未映子もときどき嘘をつく。これでは「わたし」と夫はセックスをしていないことになってしまう。「夫はときどき嘘をつく」という事実を知っている専業主婦らしき「わたし」の、易々と追い詰めない感じがこわい。

 じわじわがこわい。

 こわいまま②に続く。



[余談]

 まだ『黄色い家』に関してネタバレの記事を書くのは早いか? もし書いたら、どこかからこっぴどくおこられたりするんだろうか?


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