何故芥川龍之介作品は誰にも読まれなかったのか① 吉田精一を永久追放しないと駄目だ
まだまだ芥川龍之介については書きかけですが、これまでのまとめとして、何故芥川龍之介作品は誰にも読まれないのか、という点に関して、まずは「読まれていない」という事実を具体的に確認しながら振り返っていきたいと思います。
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まず驚いたのは、この点でした。
これがいささか質の悪い冗談でないとしたら、仮にも小説を書こうとする人に指南しようという立場の人間が、芥川の『藪の中』や『羅生門』を読んでいないということになります。これだけだとまるで私が揚げ足取りをしているみたいですが、実はそうではないのです。
いや、まさか、そんな筈はあるまいと思いながら、実際に調べてみるとやはり、誰一人芥川龍之介作品を読んだと言える人間が見つからないのです。
必要悪?
圧倒的な高評価を得ているこの教本、『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』(ちくま学芸文庫)が国語教師の教科書として利用されてきた歴史そのものは否定できません。そして現にこうしてこの本に高評価を与えている人たちは全員芥川龍之介の『羅生門』すら読んでいないことになってしまいます。
駄目なものを持ち上げれば同罪ですよね。
著者は勝手に下人を「小心」と決めつけ、下人の行為を「必要悪」という頓珍漢なくくりで捉えてしまいます。これは『羅生門』の解釈の肝の部分なので、揚げ足取りとは言えません。うっかりミスではなくて根本的な読み誤りなのです。
下人が「小心」で、下人の行為が「必要悪」ならば、『羅生門』出版記念パーティで色紙に書いた文字は何だったのか、となりませんか。それで『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』と威張っているので始末に負えません。
どうしてそこでもっと謙虚になれないのでしょうか。
勿論謙虚になれとはあれこれ言い訳が出来るように「こういう解釈もある」と逃げを打てという意味ではありません。「ここまでは解る」「ここは少し解らない」という節度が必要だということです。
①書いてあることを読む
②書かれていないことを勝手に付け足さない
この二つの原則を守れば誤読は避けられる筈です。
しかしそんなことが案外できませんね。
どうもそこなのです。
大抵の人がこの逆をやります。
本当に基礎からやり直して欲しいと思いましたが、残念なことに著者は二人とも故人です。
芥川のどこが良いのか
では、細かいところはさておいて肝心な部分、芥川作品のどこが良いのかという肝の部分だけでも捉えている人はいないものかとつい探してしまいました。
するとこんな珍本に辿り着きました。
この本の参加者は自分では芥川のどこが良いか、まるで掴めていません。
確信が持てないので他人の意見を適当に摘まみます。
それでは芥川作品を読んだということにはならないでしょう。
さらに『羅生門』のラストシーンを読み違えてしまっています。これでどうしてこんな本を書こうとしたのか不思議でなりません。
老婆は下人の去り際は見ていません。
ただ楼の下を覗く訳です。
繰り返しになりますが
②書かれていないことを勝手に付け足さない
これがどうして難しいかというと脳が勝手に情報を補おうとするわけですよね。楼の下を覗くタイミングとしては明らかに遅いわけですが、楼の下を覗くので見るべき対象物としての下人の姿が見えたのではないかと思いこむわけです。脳が勝手に情報を補おうとするので②書かれていないことを勝手に付け足さないためには時々脳と喧嘩しなくてはなりません。
やり方は簡単です。書き出してみて確認してみればいいんです。それをやらないから汚染データが蒔き散らかされるんです。
津波にも妊娠時期にも気が付いていない
このひつじ書房の『卒業論文マニュアル』は例えば芥川龍之介の『あばばばば』について、先行研究を参考にしながら卒論に仕上げてみようという大学生向けのマニュアル本のようです。
何人もの教育者が参加して執筆しています。
それなのに津波にも妊娠時期にも気が付いていない様子です。
これは他人事ながら恥ずかしいことではないでしょうか。
とてもいい大人がやることではありません。
そもそもマニュアルで卒論を書かせようという発想そのものがいただけませんが、この本では吉田精一の「保吉ものは身辺雑記的私小説」というおおよそ考え難い大チョンボを「先行研究」にしてしまっている点が最悪です。
研究とは自分の感覚で適当なことを書くことではない筈です。研究しなくてもいくつかの保吉ものを並べてみるだけで、『魚河岸』などの例外はあるものの、多くの保吉ものが「失われたものを回顧の形式で書く」というスタイルを採り、その典型的な作品が『あばばばば』であることが分かるはずです。研究というのはそこから後の話ですよね。ではそのパターンの意味は何か。例外的な作品で意図されているものは何か。それを調べてからが研究ではないでしょうか。
つまり「書かれている現在」と「書いている現在」に五年も六年もの間隔が空けられている点だけ見ても「保吉ものは身辺雑記的私小説」という括りはおかしいのだということは理解できる筈なのです。これは吉田精一が何も調べず、ただ自分の感覚で適当なことを書いた証拠です。
学生さんが、具体的に何かを見落とすということは責められません。そういうことはあると思います。しかし自分の感覚で適当なことを書いているものを研究と云ってしまった時点で、その人達にはもう誰かに何かを教える資格もなく、研究者でもなくなるのではないでしょうか。
「解説者」たる資格があるだろうか
解説者の吉田精一は、
……などと確かに書いています。それを全集に書いた責任は永遠に背負っていくべきでしょう。
私は別に吉田精一に恨みがあるわけではありませんが、解説者を任される程度に吉田精一が芥川龍之介の作品を「読んだ」とはとても信じられません。まず「眺者」の領域から一歩もはみ出していないと思われます。その吉田精一が本来は徹底して批判されるべきなのに、いまだにちやほやされていることこそが絶望的なのだと思います。
先ほど「どうしてそこでもっと謙虚になれないのでしょうか」と書きましたが、実は呆れるほど多くの人は謙虚になれない代わりに、強烈な権威主義なのです。
要するに小林十之助の書いていることより、吉田精一の書いていることの方が正しいという思いこみが抜けないのです。理由はシンプルなもので吉田精一の方が権威だからです。
つまり中身の比較ができないわけです。
こういう人たちは芥川龍之介の作品だから立派だ、優れていると思いこんでいますが、無名の新人の作品を評価することが出来ないでしょう。しかしこれは証明できませんね。ただこれはどうですかね、たとえば『あばばばば』には「知的なひねり」が多く仕込まれ、『奇怪な再会』と同じく、『羅生門』や『地獄変』と並ぶ、芥川の代表作と見做すべきだ……というようなことには気が付きませんね。
ただ人が褒めているから釣られているだけ、そんな人には本当の意味で作品を読むということがそもそも不可能なのではないでしょうか。
ユーモアが解らない人たち
例えば『文章』という作品は、書くことの不可能性を巡る根源的な問いと真正面から向き合った小説なのですが最後に横向きになります。
これは笑って読んでもいい話です。いや、笑わなければならない作品なのです。
例えば『歯車』でレエン・コオトを着た男が出てくるのは、『歯車』が『河童』を書くというストーリーを持っているからで、レエン・コオトは合羽→河童のふりなのです。
『歯車』に「にょろにょろ君」が出てくれば笑えばいいと思います。
笑うべきところで笑えない人たち、そういう人たちがでは真面目な「知的なひねり」は理解しているかと云えば、それもありません。
おそらくユーモアが解らないのも、「知的なひねり」が理解できないのも同じ理由、つまり
①書いてあることを読む
②書かれていないことを勝手に付け足さない
この二つが出来ていないということに尽きるのではないでしょうか。
そしてもう一つ芥川作品に関してだけ言えることですが、芥川が大変な皮肉屋さんであることを理解しなくてはなりません。芥川龍之介が一人の無名作家と云う時には無名作家は二人いるのです。
いつも冗談をいう隙間を狙っている芥川が良いと思わないのであれば、誰か別の人の本を読むべきであり、芥川について何か語るべきではないでしょう。
間違った事を書いている人間を許してはなりません。器用に、高尚なふりをしていい加減なことを書き散らして、文学者づらしている人間が、現在の権威主義的ハナモゲラ文芸評論の基礎を作ったのではないでしょうか。
吉田精一は葬らなければなりません。
絶対に。
ん?
もう葬られている?
いやいや、文学的にですよ。
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