満員電車から吐き出された人の群れを俯瞰から眺めた時、その一人一人の人間が母と父との、あるいは母と誰かとの性行為の結果として現に存在するのであり、その過程において一つ一つの産道から排出されたことを想像してみると、よくもまあこんなにもたくさんの、あるいは明らかに過剰な人間が存在してしまつているものかと呆れてしまう。自分自身も間違いなくその一人一人であることを忘れ、これは大変にご苦労なことだと思ってみる。
全ての人間の存在が、たまたまできあがったというわけではなく、むしろ何か必死な、むきになった、激しいことどもがその背後にあり、その結果として女は母になるのだろう。黒く硬直した乳首や自己免疫機能としての悪阻、つまり我と我が子とが共存するための儀式を経て、便秘し、脱肛する母は、やがて晴れやかに乳母車を押す。
乳母車の中身は虚ろな目をした人形ではない。そこに母の恐ろしさがある。
ありったけの緊張感を漂わせて書きはじめられた『女』は、既にこれから禍事(まがごと)が始まることをそっと告げている。庚申薔薇の「庚申」とは、「庚(かのえ)」「申(さる)」庚申とは旧暦で約60日に一度めぐって来る凶日のことだ。庚申薔薇の名前の由来も花が庚申ごとに長期間咲き続けるという意味で名付けられている。
ここにあらわれた二つのセックスは、たちまち二人の女を母にする。蜂にかき回された雌蕊は花粉にまみれ、庚申薔薇は確かに花びらを開いた。雌蜘蛛は蜂に毒を飲ませる。蜜蜂は、働き蜂は男だ。
伸ばしたままの嘴はペニスの比喩であろう。そんな余計なものを受け入れる生易しい産道などどこにも存在しないのだ。そうして空しく嘴を振り回しているその瞬間にも、巨大に膨れた女王蜂は勝手にぼこぼこ卵を産み続けている。
そして確かに女は男を仕留めた後に静かにその血を吸うものだ。
そう、よくもまあと呆れるほどのこんなにもたくさんの、あるいは明らかに過剰な人間が存在してしまっていることも、この地上に草花が咲き、生き物が繁殖していることも、近所のおっさんが路上喫煙していることも、みな恥知らずの太陽の所為なのだ。太陽がなければ、地球に生命は生まれない。人類の文明と言ってみてもそれは所詮太陽の戯れに過ぎないものなのだ。太陽は恥を知らない。恥を知っていてはあんなことやこんなことはできまい。この世の出来事全てが駅前の巨大スクリーンに映し出されて構わないものならば、太陽を恥知らずとは呼べないだろうが、生憎そこまで許されるほど人類の文明はお上品なものではない。
花は生殖器である。息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた紅い庚申薔薇の花は、ぱっくりと口を開けた生殖器なのだ。それはやはり恥知らずの太陽に照らされてこそ存在する。
まさにこれは芥川の「太陽肛門」ではないか。雌蜘蛛は生殖器の中で肛門の皴のように巴卍の見栄を切る。
土いきれに凋んだ莟とは、誰にも生殖器を間開かぬまま老いた女か、それでもまだ花びらを暑熱にねじられながら、かすかに甘いにおいを放っていたとは何と淫靡な眺めであろうか。ヤクルトおばさんと呼ばれることにはもう慣れましたと言いながら、まだ小さいパンツをはいているヤクルトレディのようではないか。その石女にからめて巣を張る雌蜘蛛のなんと意地の悪いことか。素枯た莟と言われた石女のなんと哀れなことか。
母は唯一完結した存在だ。薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れられよう。母は年間行事予定表も売り上げノルマもミッションカスケードもタイムカードも忘れ、職場を離れることができる。そんなものは全て母にとっては余計なもの、そもそも何の意味もないものだからだ。
行ってらっしゃい。お仕事ご苦労様です。満員電車から吐き出されてくる一人一人の命は、もっと生々しい、もっとどろどろした、もっと強烈なものから溢れてきた存在だ。その背後には無数の母がいる。そこから押し出されてきたのだ。
イヤフォンを外してみれば、たちまち一人一人が鳴りどよんでいるのが聞こえる筈だ。無言の人の咳払いや溜息ばかりではない。誰かが誰かに何事か囁く。その一人一人の音が無数に重なり喧噪となる。
数、それが問題なのだ。
ほとんど「悪」それ自身のような女は、また恥知らずな太陽が産み落とした生き物だ。駅のホームで立ったままコンビニのおにぎりを食べている若いOLもやがて母になるのだろう。カートで運ばれている保育園児も。あるいはまだ若いヤクルトレディも。彼女らが母になるためには、おそらくほとんど「悪」それ自身のようにならなくてはならない。真夏の太陽に花びらを間開く庚申薔薇のように淫靡にならなくてはならない。そして「庚(かのえ)」と「申(さる)」がどちらも「金」を意味するように、二言目には「金、金」と言わざるを得ない。
大正九年四月この『女』は発表された。大正九年三月三十日、芥川龍之介には長男・芥川比呂志は生まれている。大正九年の干支は庚申である。