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加藤典洋の『「それ以前」の漱石――世界のはずれの風』をどう読むか③ 好ましいならよかった

 同じものを読んでいるはずなのに、全く違う印象が語られることがある。例えばgoodreadsで漱石作品の感想を読むと、かなり意外なものがある。新訳は村上春樹の翻訳も手掛けたジェイ・ルービンなどのものがあることによって、勝手に村上テイストが加えられたり、その流れでサリンジャーと結びついたりしてなんだかややこしい。

 ただしよく読むと別の翻訳者のものの感想を書いてあったりしてさらにややこしい。

 しかしそれでもある一場面を独自に再構成してしまっているケースは珍しい。加藤典洋の場合はラストシーンを独自に再構成していて、なかなか独創的である。

 ただおかげで四人の男がわざわざ土曜日に待ち合わせて正装で絵の展示会に現れたことが再確認できた。

 死人の間違った記憶が役に立った。

 死人?

 加藤典洋はとうにこの世を去っている。『人類が永遠に続くのではないとしたら』なんて本を書いたから死んでしまった。これは驚くべきことではなかろうか。人間はみんな死んでしまうのだ。

 そんなことは断じて容認できないなんて言ってみても死ぬものは死ぬのだから仕方ない。

 わたしはいくつかの村上春樹作品から、漱石の小説に通じるものを受け取るのだが、このささやかな漱石的発見を経た後で、村上の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで、「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分の最後のシーンが、かつてはそうでなかったのに、いつの間にか自分に同様に好ましく感じられていることに気づいた。

(加藤典洋『「それ以前」の漱石――世界のはずれの風』『私の漱石――『漱石全集』月報精選』所収、岩波書店編集部編 2018年)

 記事を分けているので少々分かりにくいが「同様に」とは『三四郎』と同様にという意味で、世界から置き去りにされている感じが共通しているという話の流れだ。読んだ人には説明の必要もないことだが「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分とは「世界の終わり」と平衡(?)に存在する「ハードボイルド・ワンダーランド」の章の世界のことだ。

 そこは物語の終わりの地点ではない。ただ言わんとしていることは何となくわかる。

 『吾輩は猫である』では長い一日が終わり、苦沙弥の家に集まった寒月、東風、独仙たちがいっせいに帰り始めると、「寄席がはねたあとの様に座敷は淋しくな」る、と記される。「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」という感想が猫の口をついて出、その数頁先で猫は溺死するのだが、村上の小説でも最後、小説が終わりに近づくと、自分が一人だけ世界から消えることを宣告された主人公が、世界に残され、そこで買い物をし、女友達と別れ、街を歩く。
 自分の世界はもうそこにはない。自分が生きているのは世界のはずれだ。
 『三四郎』から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』まで、二つの偏心性の淋しさが、あの「充実」しきった日本の近代を、サンドウィッチしている。
 そう想像することは、わたしの心を楽しませる。

(加藤典洋『「それ以前」の漱石――世界のはずれの風』)

 この世界にはもう加藤典洋は存在しない。というより彼はもうどの世界にも存在しない。この世界では2023年、村上春樹が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の元ネタである『街と、その不確かな壁』を書き直した。書き直したというより、彼なりにその物語を完結させた、完成させたと見做していいかもしれない。

 加藤典洋は『街と、その不確かな壁』を読まないままこの世を去った。それは自体は、つまり加藤典洋に当たり前の死が訪れてしまったことそのものは喜ばしいことでも何でもないが、加藤典洋が世界の外れで淋しさに浸り、その感覚を楽しめたとするならそれはそれでよいことなのかもしれない。

 たとえそれが何かの途中でも。

 世界から疎外され、精々物を消費するか、あるいはXでうざがらみするしか社会性のなくなった人々の反対側に加藤典洋のワンダーランドはある。そこは誰しもがたどり着ける世界ではない。

 しかしこの世界と自分とのずれの問題はけしてあてずっぽうの見当違いではない。

自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。

(夏目漱石『三四郎』)

 確かにそう書かれていた。私自身も今、この奇妙な世界でただ一人ふわふわしている感じが全くないとも言えない。

 こんなことをしてみるのも、まだ自分がこの世界に肉体として残っていることを確認するためなのかもしれない。

 よく読み直してみると、

自分の世界はもうそこにはない。自分が生きているのは世界のはずれだ。
 

(加藤典洋『「それ以前」の漱石――世界のはずれの風』)

 この「自分」は計算士である「私」であるはずなのだが、加藤典洋と明確に分けられることを拒んでいるように見えなくもない。でなければ心に沁みるものもなければ、共感もない。

 つまり?

 本来不可能なことながら加藤は世界のはずれにいたのだ。

 そこから偏心性と書いてきた。

 その世界はここからは見えない。なぜならここは壁に囲われた街だからだ。

[余談]


越智東風、水島寒月、多々良三平、八木独仙……。

美学者の迷亭のフルネームは何だっけ?

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