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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか38 痔のせいではない
数日前、『歯車』の「僕」が汽車に遅れたのは朝飯の為ではなく、妻がいなくてもできることに思いのほか時間を取られたのだとして、「参考文献」として最も信用できない作家・谷崎潤一郎の『或る時』という小説を引用して印象操作を試みたような気がする。
それは何故か?
人類が存在しているからである。
少なくともいささかやかましい『歯車』のライトモティーフの一つには官能的欲望があり、十二三の女生徒を一人前の女と感じる「僕」をさらす事、牧羊神の顔を見る事、性的にも母親に慰めを与えていることを意識している息子を見る事、といった手順を踏んで示されているのは「も」に関する自己弁護だ。妊婦から思わず顔をそむける「僕」が性的人間でないとは言わせない。
しかしどうだろう。
例えばこんな手紙を引用してみると全く異なる印象操作が可能ではないか。
『調痢丸をのみてより以来の便今日を以て漸く通じ五日ぶりのうんこを時にひり出し快絶大快絶に御座候』
そう言えばと思い出す。
が、暫らく歩いているうちに痔の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に瘉すことの出来ない痛みだった。
痔の人は用便に時間のかかることがある。しかしそれにしてはもう一つプロットが欠けている。もしも用便のせいで汽車の時刻に遅れたのなら、最低でももう一か所は尻に関するエピソードが必要だ。『歯車』にはそれがない。
残念ながら。
あるいは誰かを殺してきたか?
やはり治まりのいいのは性的人間としての「僕」である。