久米正雄が正しければ 芥川龍之介の俳句をどう読むか⑱
薄曇る水動かずよ芹の中
この句も、
曇天の水動かずよ芹の中
昼曇る水動かずよ芹の中
……と練られたようである。
曇天の水動かずよ芹の中
……に関しては「文章倶楽部 第5年第8号」1920(大正9)年8月1日発行に顔写真と「曇天の水動かずよ芹の中」の句の筆跡写真と共に『愛読書の印象』が掲載されたとの説明が青空文庫にある。
曇天や蝮い生き居る壜の中
という句もある。これはたまたま曇天が重なっているだけで全く主題の異なる句であろうという感じがあるが、どうやらそうでもないらしい。このことは後で述べる。
さて問題は「芹」で、多くの人が漠然と春の句と捉えているようだ。
この芹は青柳があるので春の芹だ。蕪村には他に、
古寺やほうろく捨るせりの中
これきりに徑尽きたり芹の中
という句があり、前者は兎も角後者は季節が春かどうかは怪しい。古寺も焙烙季節ごとに生えるものではなかろう。ただし、詩人萩原朔太郎はここに「晩春の日だまり」を見出してしまう。
さすがは詩人である。
これきりに徑尽きたり芹の中
ところでこの句にはどうもロジカルな季節がある。子規はこの句について「これは野の中の畔道の樣な小さい徑を步いて居つた場合で、片側に溝か水の流れがあつて、其處に芹が生えてゐる」として芹が生い茂り道が塞がれていると解釈している。ならばそれは花茎を伸ばす夏と見るべきではなかろうか。
岡本癖三酔は芹を夏の句に詠んでいる。
この風に倒れる長い茎があってこそ道が塞がれるのではあるまいか。やはり蕪村の、
古道にけふは見て置く根芹かな
とは別の季節だということも確かであろう。してみると、詩人萩原朔太郎のテレパシーを無視すれば、蕪村は春と夏ともう一つ別の季節の芹を読んだことにはなるまいか。
でさて芥川の、
薄曇る水動かずよ芹の中
であるが、「水」の句として見れば夏の句のようでもあるが、これは大正十一年、久米正雄が発表した小説『和霊』によればこう練られている。
根を掘れば春雨竹の青さよな
深川や早取寫眞冬の梅
曇天の蛇動かずよ壜の中
これはどう考えても芥川龍之介がモデルにされていて、発句にも三汀先生が絡んでいる。
蝮も蛇も夏の季語だ。
久米正雄はここで秋山に三つの季節の句を詠ませている。
曇天の蛇動かずよ壜の中
これが、
曇天の水動かずよ芹の中
……の元の句であり、この句が、
薄曇る水動かずよ芹の中
……の元の句であれば、句の原型に於いて季節は夏である。
濁しても直ぐ澄む水や芹の中
こんな句は何か水が涼しげに感じられて、私には夏の句に思える。
https://www.gendaihaiku.gr.jp/gh_sitedata/pub_image/4d0e616589e464957f81f878d93c882f.pdf
【余談】
反論には一年かかる。
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