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あまり買いかぶる必要はないのかもしれない

 谷崎潤一郎の『ある調書の一節』を読んだ。窃盗犯の、窃の旧字体、竊は画数が多いなあと感心する話だった。鈴木組の土工の頭、四十六歳のBが、取り調べを受ける対話で、Bはやはり悪人である。悪人であり、女房をいじめる。泣いている女房が可愛いから泣かせる。これをシンプルにサディストと見てしまうと、悪人とか善人とか、そういう概念があまりにも単純に語られ過ぎているているように思えてしまう。

 でも此のまヽでは、誰かに、──神様にだか、女房にだか、自分にだか、誰かに濟まないやうな氣がしますから。(谷崎潤一郎『ある調書の一節』)

 あの世がなくては何故困るのかという問いに対するこの答えで物語は閉じている。善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。といったところであろうか。いや、ここでも『AとBの話』に現れた、「善人は楽をするよりも悪人を救うことに価値を見出すはず」というような独自の善人論がみられるのだが、これは……。

 これはいかにも素朴すぎるのではなかろうか。いや、素朴で何が悪いということでもないのだが、ここにきて芥川的蒼さのようなものに回帰している気がする。『刺青』のおどろおどろしい毒はどこへ行ったのかと書いた瞬間、だから『AとBの話』なのかと気が付く。
 確かに『AとBの話』は悪い作家が善い作家の作品を掠め取る話だった。この『ある調書の一節』は善い作家が書きそうなものだ。
 その上で、つまりそういうからくりを前提にしたうえで、あまり買いかぶる必要はないのかも知れないと思った。何故なら『AとBの話』でも『ある調書の一節』でも順番は善悪であり、悪善ではないからだ。常にBが悪い。そこに常識が働いている。
 いやまてよ、それを含めて、つまり得体の知れないおどろおどろしさを完璧に封印して見せたのが『ある調書の一節』の藝なのではなかろうか。女房を佐藤春夫にすぱっと譲っていたらさすがだが、谷崎潤一郎にも当たり前の人間並みの未練や情があった。そういうプレゼンスを利活用して書いているとしたら、それこそあまりにも人間的すぎる。
 
 この大人しさがどうかふりであってほしいものだ。

 読んでる? 谷崎君?
 





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だって。凄い。

「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」



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