川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』はどこがこわいか? ④それは妄想か現実か
そういえば「わたし」の名前はなんだろう? 夫の呼びかけは聞こえなかった。何と呼ばれたのか聞き取れなかった。よしえちゃんともマリリンとも呼ばれなかった。「わたし」が聞き取らない限り、夫の声は聞こえない。
相変わらず「いく」と「ゆく」とを書き分ける川上未映子は、「大きな音」は排気音だとは書かない。誰かが口真似でバイクのふりをしたのかもしれないのに「わたし」はバイクだと信じている。「わたし」は井上陽水ではないからだ。
一日ソファのうえで過ごし午前一時に「わたし」家を出て壊れかけの家に入っていく。誰かに命じられたわけではないが、まるで腕の長い女の奇妙な趣味に釣られたかのように。
そういえば「わたし」は財布や電話は持っていただろうか?
そう気がついた時、私は「わたし」がキャラコのシャツとズボン下のうえから兵児帯を締めているのではないかと疑った。いやそれは名古屋の夜の三四郎の変な格好だ。
頭の可笑しい女でなければそんな恰好はしない。しかしここまで「わたし」の服装は説明されていない。バレンシアガの黒のジャケットにバツグはサンローラン、ジーンズに靴はマノロのヒール?
それは『彼女と彼女の記憶について』の「わたし」、女優の、美人かどうかわからない、笑い方が駄目な「わたし」だ。『ウィステリアと三人の女たち』の「わたし」は腕が長くないだけでスタイルが良いのかどうかさえ曖昧な、勿論美人なのかどうかなど問題にさえされない「わたし」で、もしも暗闇に怯えているのなら、電話に照明機能があることさえ知らないか、あるいは水筒とセットになったスマートフォンを携帯していない可能性が極めて高い。つまり水どころか炊飯器も持って来ていないのでご飯も炊けない可能性が高いのだ。
やがて「わたし」はこの家の住人の若い頃のことを考え始める。それは「わたし」の空想だ。手がかりは殆どない筈なのに、その空想は極めて鮮明な形で、まるで三人称の小説のように展開されていく。
この「か」のところまで「わたし」は一人称の小説の主人公のように存在していた。イメージに疑問を添えているので「か」にはまだ「わたし」という主体がある。しかしここに続く、
この空想から「わたし」はいったん消える。空想はあたかも真実のように老婆の過去を描き出していく。
そんなことはVTRでも確認しないと解らない筈なのに。再び「わたし」が現れるまでにふたりはベートーベンのピアノ・ソナタを聴き、事務作業をして、子供たちを迎え入れ、英語の授業を始める。バルコニーには黒い猫がねそべり、あちこちを丹念に舐めていたがいなくなった。
どうやら「わたし」は全知全能ではなく、この空想の完全な支配者でもなく、また完全に消えてしまうつもりもなさそうだ。さらに言えば、まさに今老女の過去そのものに、どのような形でか臨場しているように書かれている。
そのことに気がついてみればどうしても「わたし」が語り残していることを疑わざるを得ない。
「わたし」はそんなことを言っていたけれど、誰かが「その場」に臨場したら、「入れる場所が違う」と冷たく突き放すかもしれない。そんなことにはならないように、自分自身は誰かとは入れ替わらないし、誰でもが他人の過去に臨場できないようなシステムが全人類に導入されている筈なのだ。仮にそうでないとしたならば、永井均の哲学の基礎が崩れてしまうのに。
案の定「わたし」は老女の秘め事に立ち会ってしまう。
突然訳の分からないことを言い出す不思議ちゃんというものは男女トランス問わずどこにでもいるしいつでもいる。酔っぱらうと「ニシキヘビは首を切ってもまた生えてくるんですよ」と白木さんは言っていた。「芸能人はみんなチョウセンジンなんですよ」とも。やがて白木さんが夜逃げした後本名がパクだということが解った。なんにせよ数十年前の話だ。誰かが打明ける信じられない話は大抵嘘だ。つまり「きみ」の本当の名前はおそらくウィステリアではなく、そもそも本当の名前などというものはない。
徳川家康は松平竹千代→ 元信 → 元康 → 家康 → 徳川家康となり、次郎三郎、蔵人佐であり、大御所、神君、東照大権現、 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽、道和大居士と呼ばれる。そもそも本当の名前などというものはない。色々な呼ばれ方があるだけだ。
空想はウィステリアの心の中にも入り込む。まるで彼女自身でもあるかのように。
まるでウィステリアの一人称のような「わたし」の三人称の不思議な言葉が紡がれてゆく。そして「男性と交わったことはおろか手を触れたこともなく、恋愛感情を抱いたこともなく、また望んだことも望まれたこともない人間」とはどんなに不細工なのだろうかと考えてしまう。
一般的に、あるいは現実的に、女性は理想を下げれば何とか相手が見つかるものだ。あるいは女性は姓を売り物にすればよほどのことがない限り価値がある。つまりよほどのことがない限り「望まれたこともない人間」など存在しえないのだが、これがウィステリアの卑下ではなく「わたし」の見立てとも重ねられるとしたら、それは凄まじい見立てなのではなかろうか。例えば膝まで届く腕を持つ女でさえ、望みさえすれば男性経験はあるだろう。しかし望まなければないかもしれない。望んだことがなければ、その人にはマリーの愛外在実体不変説も通用しないということか?
いや、ここには「男性と交わったことはおろか手を触れたこともなく」と書かれている。
ん?
既に書かれていたこのエピソードでは手を触れたかどうかは曖昧にされていた。しかし空振りで一緒に落ちるものだろうか。そしてどうもウィステリアは外国人教師に恋愛感情を抱いている。
つまり外国人教師は?
〇男性
〇女性
〇その他
〇答えたくない
ウィステリアは外国人教師との間に存在しえない赤ん坊を妄想し始める。
「わたし」の妄想は勝手に老女を処女のレズビアンにして、現場監督と作業員たちを解放し、ウィステリアと三人の女たちの正体を突き止めた。「わたし」と腕の長い女と外国人教師が三人の女たちなのだから、作業員たちはもう堂々と男便所でしゃがみ小便するがいい。
それにしても「とっさに手をつかもうとした」と書いてしまう川上未映子はこわい。「わたしたちの娘」と書いてしまう川上未映子はこわい。
こわいので⑤に続く。
[余談]
このちょっと先、
EAT GOOD PLACEに行ったら、
瓶入り水を飲んで優雅なランチしているお洒落なママさん貴族がぎょうさんおるで。