「ふーん」の近代文学⑧ パロディとしての三島由紀夫
三島由紀夫は大正十四年生まれ、ウィルバー・ダフォディル-11・スウェインより三歳年下ということになる。
もし生きていれば今年で98歳、しかしそう思ってみれば三島由紀夫は全く自然に、驚くほど支那に影響を受けなかった。
太宰治の「ギリシャを憧れてはならない」という警告を無視するように新婚で「世界旅行」と称してギリシャを訪れた三島由紀夫は、その国ぶりにあからさまに触発されたようなところがある。
一方谷崎潤一郎や芥川龍之介は支那、と云うものにひどく毒された世代であるといって良かろう。仮に太宰治に「行動」がないとした場合、芥川龍之介の唯一の「行動」は大正十年三月下旬から同年七月上旬に至る支那視察である。そのことによって芥川には明らかな変化がある。それ以前から『奇怪な再会』や『南京の基督』などの作品で支那に関する何とも言えない捻じれた関心を抱いていたらしい芥川ではあったが、『将軍』(大正十年十二月)を見れば確かに、その関心は隣国としての支那に対するものから、敵国として日本と対峙する支那へとシフトしているように見える。
それは勿論芥川を保守にするものではなく、その後の芥川作品の基調となるようなものではないが、「行動」があり変化があった事は間違いない。『河童』で描かれた地続きの異文化も、現代日本のカリカチュアであるばかりではなく、支那という全く異質な空間を眺めた成果の一つではあろう。それは大正五年に書かれた『MENSURA ZOILI』よりも生々しく、日本、英吉利、独逸、墺太利、仏蘭西、露西亜、伊太利、西班牙、亜米利加、瑞典、諾威ではない世界だ。
無論私は河童の国が支那であるなどと書くつもりはない。河童の国には支那らしいところはまるでない。ただ芥川が唯一眺めた異質な空間が支那であり、そのことで日本という世界の見え方が変化しただろうと考えているだけだ。
そういえば三島由紀夫からは支那の文献に関する発言が聞こえてこない。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の日本語訳は昭和六年ごろから始まるので芥川はまだその作品を読まずに死んだだろう。カフカとともに後世に絶大な影響を与えた『失われた時を求めて』に対して、三島由紀夫は切れ味よく「現実を終わらせようとした」と断じて見せる。複数ページを跨ぐストロークの長い文体にも、サロン文化のスノビズムにも言及することなく、衛星画像並みの俯瞰から『失われた時を求めて』の本質を語る。そして勢い余って「ことば」の本質にまで言及してしまう。
後に虚無の世界に読者を導く自らの運命を語りでもするかのように、言葉が現実を終わらせることを示唆してしまう。
しかし、だ。
何度も書いているように、『失われた時を求めて』の後も『豊饒の海』の後も言葉は紡がれ、現実は続いていく。カート・ヴォネガットの『スラップスティクス』は1976年に書かれた。いささか投げやりな形で、文学は繰り返される。
この三島由紀夫の言葉は谷崎潤一郎の『The Affair of Tow Watches』に向けられている。
後に明かされる通り、当時の谷崎潤一郎は南朝贔屓の時流に乗っていた。そしてしばしば口を滑らせていたのだが何故か三島由紀夫はそこには気が付かない。ただデカダンだという。
大体デカダンだとデカダンに気が付かないもので、谷崎がデカダンを自覚したのは『卍』からだとも三島は言う。三島は自分がデカダンだということに最後まで気が付かなかった。三島の幸福の定義は十九歳で『ドルジェル伯の舞踏会』を書き、二十歳で特攻隊として死ぬことだった。レーモン・ラディゲは十四歳で放校処分になる随分デカダンな男だ。晩年に傾倒したジョルジュ・バタイユには『太陽肛門』などのデカダンな作品が多くある。
三島由紀夫は自分自身がパロディであり、デカダンであることに最後まで気が付かないふりをした。しかし安永透が松枝清顕のパロディであるように、三島由紀夫は太宰治の『十五年間』のパロディをやって死んだ。
三島由紀夫が天皇陛下万歳と真似るまでには二十四年間もかかった。三島はそのパロデイを矛盾だらけの生首で閉じた。
三島由紀夫は確かに近代文学を全否定した。しかし自分が地続きの百年という位置に立っていることを暗に認めていた。
もうお解りだろう。この記事は三島の対談集から気になった言葉を書き抜き、何かそれらしいことを書き足しながら何かを論じているように見せかけた殆ど中身のない話である。
つまりここには何もない。荒涼たる文字のつらなり、「ふーん」と賺されるべきものがあるだけなのだ。私も一つのパロディに過ぎない。
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