芥川龍之介の『杜子春』をどう読むか③ それは決定事項ではない
これまで二回、『杜子春』について書いてみた。メジャーな作品ほど読んでいる人が多いので、私が本当のことを書くことで、今までいい加減なことを書き散らしていたその人を傷つけてしまうかもしれないと知りながら、どうしても書かないわけにはいかなかった。
実は『杜子春』『蜘蛛の糸』と立て続けによく知られている作品に関して述べるのはたまたまではない。もちろん芥川龍之介が童話に立て続けに「地獄」を持ち出したこともたまたまではなかろう。そしてその童話がさして道徳的ではなく、きれいごとでもなく、いつもの通り逆説の物語であることもたまたまではなかろう。
芥川龍之介は地獄の好きな作家である。いや、好きではなかろうが『孤独地獄』から『侏儒の言葉』、『歯車』まで、地獄の概念に取りつかれた作家である。
このような「いわゆる地獄」というものを芥川がさして真面目に捉えていないことは言うまでもなかろう。そうでなければ、つまりこの「いわゆる地獄」がリアルなものであれば、舌を抜かれて脳みそを吸われた杜子春が何かを白状することも、「お母さん」と叫ぶことも不可能だからである。この矛盾は意図して拵えられたもので、だからこそお伽噺なのだろう。
ただ『孤独地獄』から『侏儒の言葉』、『歯車』までの地獄を眺めた時、リアルな地獄というものも見ていたこともまた確かだ。
一定の法則を持つていない現実の地獄、それが「いわゆる地獄」よりも恐ろしいことを芥川龍之介は一貫して書いて来た。
一貫して?
私は『杜子春』にもそういう地獄が書かれていると考えている。
そもそも杜子春はどういう男だったか?
金遣いが荒く、無計画、他力本願で、自分のことは棚に上げて勝手に他人だけを批判し人間不信に陥っている。自分を省みるつもりはさらさらない。そもそも人が離れて行ったのは杜子春に金以外の魅力がなかったからではないのか。そもそも働く気がない。
最初から悲観的である。人生の目的も見えない。何かに努力している気配もない。
さて、こんな男が家と畑を貰ったところで、果たして「人間らしい、正直な暮しをする」ことができるだろうか。
畑仕事の経験もないのに?
この結びをハッピーエンドと読む人は少なくないようだ。しかし杜子春の声の晴れ晴れしい調子は鉄冠子のプレゼントの前にある。つまり「人間らしい、正直な暮し」はプレゼントの前提のない時点のものなのである。
では「人間らしい、正直な暮し」とはなんであったか。
作中人間はみな薄情なものとされ、その定義は覆っていない。敢えて言えば「お母さん」と叫ぶことは人情だが、他人に対する愛情が芽生えた気配はない。つまり「人間らしい、正直な暮し」とは、仮に家と畑を得てさえ、一定の法則を持っていない現実の地獄なのではなかろうか。
杜子春の未来に晴耕雨読のような清貧が見えない。芥川はプレゼントを与えられた後の杜子春の表情も答えも書かない。そこは飽くまでも読者に委ねられている。子供に、これから杜子春が立ち向かう現実とは何なのかと考えさせようとしている。
これまで働いたこともないものに何ができるのかと考えさせようとしている。杜子春の声の晴れ晴れしい調子の意味を考えさせようとしている。
元ネタでは「恩ある者には之に煦(むく)い、讐(あだ)ある者には之に復す」という方向性だ。
人間は皆薄情だという芥川の杜子春に恩人はいまい。だからといって薄情者たちに復讐したとは芥川は書かない。ただ泰山の南の麓の一軒家でのひっそりとした暮らしが決定事項ではないことを仄めかすのみだ。現実の地獄は一定の法則を持っていない。芥川はこの無法則の世界のぼんやりとした不安を子供たちに教えようとしているのだ。まるでとても親切な仙人でもあるかのように。